意外にも相撲に関しては理論家だった田中前理事長
「かつて、日大の本部で田中氏に話を聞いたことがありますよ」
そう語るのは相撲評論家の中澤潔氏(元毎日新聞記者)だ。
「90年代だったと思いますが、日大出身力士が大相撲の幕内で多数活躍していたころ、育成法や指導法について聞きたいと申し入れたところ、じゃあこちらへ来て欲しいということでね。難なく取材することができました。毎年10人ほど相撲部が採用する特待生の選抜が難しいという話で、相撲に関しては理論家という印象でした」
田中氏には『土俵は円 人生は縁』(早稲田出版、2002年)という著書がある。これを取りまとめたのは日本大学出身の相撲記者で、少なくとも親しい相撲関係者には胸襟を開いていたことがうかがえる。
田中氏は1946年、青森県生まれ(5人きょうだいの三男)。実家は農家で、学生相撲の強豪だった長兄、次兄には「栄養が必要」ということで夕食に卵がついていたことをうらやましく思い、兄たちに続いて相撲の稽古を始めるようになる。
元小結・舞の海の出身校でもある県立木造高校を卒業後、日本大学に進学。1年後に入学した輪島(後の横綱)とともに、相撲部で活躍。アマチュア時代に3度の「アマ横綱」をはじめ34個のタイトルを獲得した。
「夫人にだけはいまも頭が上がらない」
日大相撲部とは至近距離にあった花籠部屋からもプロ入りの誘いがあったものの、田中氏は日大に残留。花籠部屋に入門したのは輪島のほうだった。このとき田中氏に「大学に残れ」と指示したのは、戦前から戦後にかけ、日大相撲部を指導した橘喜朔氏(当時の日本大学体育局長)である。稽古場で自分の稽古しかしない輪島と、後輩に胸を貸す田中氏の違いを見た橘氏は、田中氏の指導者としての適性を見抜き、将来の監督候補に指名したのだった。
大学卒業後の1974年、田中氏は1歳年上の優子夫人と結婚している。優子夫人の実家は阿佐ヶ谷で「五平」という青森の郷土料理店を経営していた。今回の事件において、現金授受や「理事長詣で」の舞台ともなった「ちゃんこ料理たなか」の前身である。
まだ田中氏に経済力がなかった時代、日大相撲部の学生たちの食事やさまざまな経費を担ったのが夫人の実家だった。「夫人にだけはいまも頭が上がらない」とされる田中氏だが、その根底には、若かりし時代の「恩義」がある。
1983年、庄川洋一監督の後を引き継ぐ形で相撲部監督に就任した田中氏は、日大相撲部黄金時代の土台作りに着手した。その要諦は「金の卵」を大相撲に送り込み、角界から支度金という名の「謝礼金」を集金するシステムの構築である。
時代が移り変わり、中卒で角界に入門する子どもたちが減り、大相撲の新弟子育成能力が低下しているのを感じ取った田中氏は、即戦力で確実に幕内上位、あるいはそれ以上を狙えるような力士をプロの相撲部屋に送り込む「養成機関」として、日大相撲部のブランド力の底上げをはかった。