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高校ご進学直前、悠仁さまの“帝王教育”に動きづらい深刻な理由〈今後“皇籍を離脱したい”と願う皇族が現れたら…〉

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「文藝春秋」2月号より元宮内庁書陵部編修課長の米田雄介氏による「皇室の危機を考える『天皇を鍛えた男たち』」を全文公開します。(全2回の2回目/前編から続く)

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「わがまま気ままのくせをつけないこと」

 近代に入ると、帝王教育にも時代に応じた変化が生じます。日本が近代国家として確立するには、天皇となる人がいかにあるべきかと考えられるようになるのです。

ブータン王国から帰国された悠仁さま ©JMPA

 礎を築いたのは明治天皇です。大正天皇が幼少の頃から病気がちで十分な教育ができなかった反省を、孫である迪宮(みちのみや)裕仁親王、つまり後の昭和天皇に生かしたのでしょう。生後70日目から、信頼を置いていた枢密顧問官で海軍大将(死後昇進)の川村純義に養育を任せます。

 明治天皇らの意を受け、川村家では次のような養育方針を定めます。

(1)心身の健康を第一にすること

(2)天性を曲げぬこと

(3)ものに恐れず、人を尊ぶ性格を養うこと

(4)難事に耐える習慣をつけること

(5)わがまま気ままのくせをつけないこと

 この方針に基づき、川村家は純義亡き後も昭和天皇満4歳まで、家族ぐるみで厳しく躾けたのです。

 私は幼い昭和天皇が砂浜で裸になって相撲を取らされたという話を聞き、半ば気の毒なような気持ちを抱いたことがあります。天皇になる人にそこまで無遠慮でよかったのだろうか、と。しかし川村は、元首たる天皇にはとにかく壮健な体を作ることこそが不可欠だ、という確たる信念を持っていたのでしょう。

中等科に進学しなかった昭和天皇

 この信念の延長上にいたのが、やはり明治天皇の信任が篤く、学習院院長を命じられた陸軍大将・乃木希典でした。学習院初等科に進んだ昭和天皇は、乃木の教えを受け、雨の日でも徒歩で通学し、鉛筆や消しゴムは持てなくなるまで使い、継ぎのあたった服を着ました。

乃木希典

 冬には、乃木から「今日のように寒い時や雪などが降って手のこごえる時などでも、運動をすればあたたかくなりますが、殿下はいかがでございますか」と尋ねられ、「ええ運動します」と答えたという逸話も残っています。

 まさに質実剛健の教えです。

 昭和天皇は初等科を卒業後、中等科には進学していません。乃木が発案し、明治天皇が裁可して設置された東宮御学問所で学ぶことになったからです。総裁は、海軍大将の東郷平八郎。東大や学習院などの教授や一流の知識人らを結集し、この国の天皇としてあるべき人物をつくりあげるための特別な教育機関です。

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