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元東京都知事・石原慎太郎氏が“87歳での膵臓がん”との闘いを告白した手記「まさに丁か半か。私の運命の分かれ目」

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2022/02/02

 2月1日、作家で元東京都知事の石原慎太郎氏が東京都内の自宅で亡くなった。享年89。月刊「文藝春秋」への寄稿は数多く、その中から“難治がん”のすい臓がんから奇跡の生還を果たした当時、闘病の様子などを綴った手記「予期せぬ出来事―私の闘癌記―」(「文藝春秋」2020年7月号)を再録する。(全2回の1回目/後編に続く)

石原慎太郎氏 ©文藝春秋

(※年齢、日付、肩書きなどは掲載当時のまま)

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芥川賞で有名になった訳ではない

 振り返って見れば私の人生は予期せぬ出来事の連続だった。

 学生時代に復刊させたかつての『一橋文芸』の原稿がいざとなるとどうしても足りずにその穴埋めを頼まれて書いた小説が文學界の同人雑誌評で注目され、その号に発表されていた新規にもうけられた新人賞の規定を見て最初の候補作がいかにもつまらないのでこんなものならもう少しましなものが書けるだろうと思い、二日で書きあげた『太陽の季節』をぎっちょの悪筆なので三日かけて清書して投函したらそれが新人賞となり、さらに芥川賞ともなった。

 その後作品への毀誉褒貶がかしましく、まだ若造の私が突然衆目にさらされることになったが、自惚れて言う訳ではないが私は芥川賞をもらって有名になった訳でなく、芥川賞なるものは私のような小僧が毀誉褒貶の小説で賞をもらったことで世に有名になりおおせたのだ。これもまた芥川賞にとっても予期せぬことだったに違いない。

 そしてことの余韻として私にとって予期せぬ出来事があい次いで現れてきたものだった。まだ二十代の初めの頃文壇の行事で出会った桶谷繁雄さんの推輓で富士重工のスクーターのキャンペーンで中南米を走り回り、チリーのサンチャゴから南下し、パタゴニアを越えアルゼンチンに入り草の海のパンパスを北上し、さらにブラジルのサンパウロまで二千キロを越える大キャラバンの隊長の依頼が舞い込み二つ返事で引き受けた。

 あれはまさに天から降ってきたような話で母校の一橋大学の自動車部の学生を引き連れての長駆となったが私にしても選ばれた学生たちにしろ、行く先々で美女と美酒に恵まれたまさに青春を謳歌する夢のような旅だった。

人生における最初の挫折

 私の人生における最初の挫折はベトナム戦争の最中にある新聞の依頼でクリスマス休戦という、戦争の真っ最中での未曾有の行事の取材を頼まれ、好奇心にかられるまま危険極まる最前線での雨中の待ち伏せ作戦にまで参加し疲労困憊の揚げ句肝炎にかかり、帰国後半年の静養を強いられ、その間ベトナムでの体験に照らして祖国日本の現状に強い危機感を抱いて政治参加を決心してしまったものだった。

芥川賞受賞当時の石原氏 ©文藝春秋

 あれは自業自得の選択だったが他人の戦争の取材に赴く前には予想もしなかった人生における選択だった。

 その結果私の文学は半永久政権に近い自民党への反感から狭量な日本の文壇の偏見やそねみもあって不当な扱いをうけたものだったが。

 その後二十五年の永年勤続の表彰を受けたのをきっかけにして引退したが、私の政治参加がもたらした最たる試練は苦労の末参議院から東京の選挙区を選んで衆議院に移って間もなく当時の共産党の美濃部知事に対抗しての出馬の要請があったが当然私は固辞したものだが、三木派の宇都宮徳馬氏が候補となったもののなんと選挙の告示の十日前に突然候補を辞退してしまい、美濃部の無競争での再選となりそうな状況に対抗して敗戦を覚悟の上で私が立候補することになっての試練だった。共産党への敵意と危機感に駆られての決心だったが、あれも行きがかりとはいえ予期せぬ出来事だった。

 その後訳のわからぬ青島知事が退任した後の都知事選の候補たちが余りに低劣な議論をしているのに呆れて衝動的に決心してしまいまたぞろ政治の世界に舞い戻ったのも半ばは予期せぬ出来事とも言えたろう。

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