2月1日、作家で元東京都知事の石原慎太郎氏が東京都内の自宅で亡くなった。享年89。月刊「文藝春秋」への寄稿は数多く、その中から“難治がん”のすい臓がんから奇跡の生還を果たした当時、闘病の様子などを綴った手記「予期せぬ出来事―私の闘癌記―」(「文藝春秋」2020年7月号)を再録する。(全2回の2回目/前編から続く)
(※年齢、日付、肩書きなどは掲載当時のまま)
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千代の富士と星野仙一
連絡すみの報告を受けてその翌々日千葉市の稲毛にある国立の施設に飛んでいった。それは千葉市の一画にある広大な施設で、放射線での治療とそれ以外の施療、採血検査やMRIやエコーに依る検査を行ったり各分野の診断や治療に携わる医師たちの勤める本館と、施設を運営する理事長以下幹部が割拠するヘッドクォーターの建物、そして離れた一画に現代における最先端技術である重粒子線を駆使して癌治療を行う本丸の建物があった。
私はまず本館で患部のバイオプシーで膵臓癌の診断を下してくれたNTT病院の神田医師から病状の報告と紹介をうけていた担当の山田医師に面接した。冒頭山田医師に癌の発見は偶然とは言え極めて早期で癌のサイズは二センチ足らずで小さく延べ十二回の放射線治療でこと足りる筈だろうとの判断を披瀝された。そして今週中にまず二回の治療を行い翌週とさらに翌々週四回受診して規定のワンクールの施療を行うとの説明があった。
そして癌の発見の経緯について話した私に、
「それにしてもその医師は専門外のことなのに良く気がついたものですなあ、あなた余程感謝しないとねえ」と言われたものだった。
後に聞かされたが膵臓というのは沈黙の臓器とも呼ばれていて胃のうしろに隠れていて極めて見にくい部分だそうで発病の自覚も乏しく癌の発見は極めて難しく発病の症状が現れた時は手遅れが多いそうな。
後に聞かされたが、相撲の名横綱の千代の富士と野球の中日ドラゴンズの監督だった星野仙一選手も発見が遅れ既に三期四期にかかっていたために手遅れで亡くなったそうな。それに比べれば私の癌の発見は専門外の松下医師の炯眼に依ったもので、いつも穏やかに専門の前立腺について所見を述べてくれる彼が小首を傾げながら指摘してくれたエコーの中の怪しげな影への指摘は正鵠を射ていて、まさに神の声だったと思う。
初日の診療はまず事前に体に合わせて作られた亀の甲羅に似た容器に上半身を包まれ仰向けに寝かされて行われた。照射技師たちが「それでは照射を始めます」と宣告するまでに、照射はわずか五六分ほどの短時間ときかされていたのに、何故か事前に十分ほどの時間がかけられた。後に見学した際に聞かされたが患部を写したCTやMRIなどの映像をダブらせて体から距離のある本体からごくごく限られたサイズの患部に重粒子線というかなり強力な放射線を正確に当てるのには綿密な作業が必要とされるそうな。
後に許されて見学した照射スタッフの座るコントロールルームにはそれを明かすように数多くの患部の映像スクリーンが羅列されていて照射の前に念入りにそれらの映像を組み合わせては焦点を決めるのだ。その的が外れると強力な放射線が臓器の他の部分を焼きつくしてしまいかねない。
後に指定のワンクール十二回の照射を終えた後担当の山田医師から教えられたが、
「今もし貴方の腹を切って開いて見たら、患部の周辺は照射で焼けて真っ黒になっていますよ」と。
そのためにスタッフは狙いをすまして細い放射線を正確に患部に命中させるべく細心の注意を払って際どい射撃をしているのだった。
それを逆に証すような事態を二日目の治療の際に私が犯してしまった。それは裸に近い姿で台の上に横たわっていた私が思わずくしゃみをしてしまったら、その弾みに甲羅の中の体が微妙に動いて照射の焦点が僅かにずれてしまい、照準のやりなおしとなりさらにまた時間をかけての再度の照準となった。