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コシヒカリ、ササニシキ、あきたこまち、ひとめぼれなど多様な品種の味の違い、さらにコシヒカリでも産地による品質の差などがわかるようになってきて、次第にお客さんにセールストークができるようになっていった。

しかし、その間も松栄米穀の売り上げは落ち続けていた。これは、業界の変化も大きく影響している。もともとコメの生産、流通、販売は政府の管理下にあった。米穀店は許可制で、コメの価格も定められていた。それが、1995年に食糧法が施行され、流通の自由化によってスーパーやコンビニなどでもコメが売られるようになると、わざわざ米穀店でコメを買う人が激減した。

もともと「日本人の主食」として薄利多売を国から定められ、それゆえに許可制で守られてきた米穀店にとって、これは大打撃だった。コメの低価格は維持されたまま、販路の開拓や価格交渉など慣れない仕事が加わったのだ。

しかも、コメの年間消費量は、1962年度をピークに減少し続けている。1962年度にはひとりが1年で118.3キロのコメを食べていたのに、2000年には64.6キロとほぼ半減している。

父親の体調が悪化し、次第に後継者として店を経営するようになった大曽根も、常々、商売が難しくなっていることを感じていたという。

「正直に言って自分も毎日コメを食べるわけじゃないし、市場がどんどん小さくなっているなと感じていました。父親が作った会社だから、僕が守らないとっていう意識はあったけど、店の売り上げも年々落ちていて、これからどうしよう、困ったなと思いながら仕事をしていましたね」

「倒産するなら1日でも早い方がいい」

2011年、父親が亡くなった。そのタイミングで「清算しようか」という思いがよぎった。しかしこの時、一緒に松栄米穀で働いていた弟が「自分は外で働くから、もうちょっと続けたら?」と言ってきた。恐らく、弟にも「父親の店を守りたい」という想いがあったのだろう。

「そこまで言うなら」と、店を続けることに決めた。ただ、「このままでは潰れる」という危機感もあり、ある日、フェイスブックで赤裸々に現状を明かし、「皆さん、コメを買ってもらえませんか?」と綴った。すると、小中高時代を共に過ごした暁星の仲間を中心に、友人、知人たちが手を差し伸べてくれた。業務用のコメの販売先を、いくつも紹介してくれたのだ。

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