「凛」が閉店する22時過ぎ、店を訪ねた。そこで改めて「この先、どうするの?」と問われた大曽根は、「コメの配達で都内の道は詳しいから、タクシーか宅急便ですかね」と答えた。それを聞いた國分さんは、意外な提案をした。
「前に話したステーキ屋、やってみない? せっかくおいしいコメを出せるんだし」
頭から離れなかったステーキ店のアイデア
國分さんはしばしば、閉店後に自分の店で仲間たちとワイワイ過ごしていた。ふたりが仲良くなってから、大曽根もそこに加わるようになった。
その時に國分さんが「チャーシューを仕入れている肉屋から安く手に入るんだ」とよく振る舞ってくれたのが、ステーキだった。もともとイタリアンのシェフだった國分さんが焼くステーキは、「めちゃくちゃおいしかった」という。
國分さんには思い出があった。学生時代にアメリカに行った際、ボリュームのある1ポンド(450グラム)ステーキを安価で提供する「タッズステーキ」という店に通っていた。店でステーキを焼きながら、「あんな店、日本でもやれたらいいよな」と言っていたそうだ。
ステーキ屋をやらないかという想定外の話に、大曽根は戸惑った。確かに、コメをおいしく炊くことはできる。でも、分厚いステーキ肉をうまく焼ける自信はない。正直にそう告げると、國分さんは、ニコリとほほ笑んだ。
「大丈夫、教えるから」
兄貴分の言葉に心が動いたが、問題は場所だった。倒産によって、新小岩にある実家と併設されている松栄米穀の店舗も手放さざるを得ない状況で、新たにどこかで飲食店を開くのは現実味がなかった。
倒産手続きを進め始めた大曽根は、事情を知って声をかけてくれた暁星の先輩が経営する和菓子店「うさぎや」で働き始めた。店頭で和菓子を売る仕事で、コメ屋時代に客とコミュニケーションを取るのに慣れていたから、苦にならなかった。
接客しながらも、ステーキ屋のことが頭から離れなかった。もしステーキ屋をやるなら、唯一の可能性は松栄米穀の店舗を改装することだったが、実家と店舗を手元に残すためには多額の資金を用意する必要があった。当時の大曽根には、なんの当てもなかった。しかし、想像もしないところから手が差し伸べられた。