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「時代に合わせて教育も変化しなければ…」の落とし穴 “それだけで価値がある”学校とは?

その校風にはわけがある。超名門校の意外な由緒と歴史トリビア#2

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 おおたとしまさの新刊『ルポ名門校』から100年以上の歴史を有する名門校の歴史トリビアを2回に分けて紹介する。前編の「旧制中学の系譜」「藩校の系譜」に続く後編は「女学校の系譜」「大学予科の系譜」「師範学校の系譜」。

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女学校のしたたかなサバイバル術

 前編で話題の中心だった旧制中学は男子のみが通える学校だった。戦前の女子は高等女学校に通っていた。

 1913年、全国の男子中学校317校に対し、それと同等の教育を行う高等女学校は330校。大正初期の時点で、すでに高等女学校のほうが多かった。

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 戦前、女子中等教育の整備が常に後回しにされたのは事実だし、日本では多くの制度が男子優先に設計されてきたから、「戦前も戦後も女子校は意外に多かった」という事実にはやや驚くかもしれない。しかし逆説的に考えれば理由はわかる。国による規制が緩かったからこそ、学校の自由度が高まり、多様で個性的な女学校文化が花開いたのである。

 男子中等教育には藩校という原形があったが、女子教育には礎にすべきものがなかった。そこにちょうどよく、キリスト教各派の宣教師たちが多数来日するようになった。彼らは学校をつくるノウハウをもっていた。横浜や神戸などの港町には特に多くのミッション系の女学校ができた。

 明治政府も実は1872年には官立の女学校を設立していた。官立東京女学校である。そこでは従来の伝統的な女性観ではなく、開明的な女性観が採用された。しかし、西南戦争に伴う財政難で、1877年廃校になってしまう。

 1882年には東京女子師範学校附属高等女学校がつくられる。これが現在のお茶の水女子大学附属高等学校の源流だ。

 1899年高等女学校令公布。以後、各府県に公立の高等女学校が多数つくられるようになった。しかし、うまい話には裏がある。当時の文部大臣は、高等女学校の役割を良妻賢母を育てるための教育機関であると宣言した。しかも同時に発せられた訓令第12号によって宗教教育が禁止された。