昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

「妻と生卵1個を半分に…」加山雄三85歳が振り返る、ホテルの倒産と忘れられない母の言葉

#2

大借金、母の死、小脳出血……。「文藝春秋」2022年4月号より、4月11日に85歳の誕生日を迎えた俳優・歌手の加山雄三さんによる「若大将85歳の『幸せだなぁ』」を全文転載します。(全2回の2回目/前編から続く)

◆ ◆ ◆

ホテル倒産、母の死…

 辛い思い出もたくさん出てきました。パシフィックホテル茅ヶ崎の倒産とかね。1970年のことで、僕がまだ30代前半だった。ちょうどビートルズが初来日して、一緒にすき焼きを食べたり、映画『エレキの若大将』がヒットして、主題歌の「君といつまでも」が350万枚も売れたりしていた。その数年後に起きたことですね。いいことがあれば、必ず悪いこともあるんだな。

若大将シリーズ

 僕はホテルの監査役をしていたので、倒産にともなって23億円もの負債を抱えることになったんです。あまりに高い金額で、他の共同経営者は「知らない」って、みんな、お手上げ状態になっちゃってね。

 俺だって、最初は「どうしたもんか」と思って、当時交際していたカミさんと一緒にアメリカに逃げたんだよ(笑)。マスコミには「駆け落ち同然」なんて批判されたけど、晴れてアメリカで結婚式を挙げてね。「ざまぁみろ」てな気分で帰国して、みんなの前で「これから借金返済を頑張ります」と言ったんです。そうしたら、またマスコミに「お前は甘い!」なんて、コテンパンに叩かれちゃった。あの時の記者たちの勢いは物凄かったな。

 でも、僕も言葉通り「自分の蒔いた種だからしょうがない」と一生かけて返す覚悟を決めていたんです。それからは、ナイトクラブやキャバレー回りをして、とにかく稼いだ出演料は全額返済にあてた。当時の生活を喩えるなら、“切り詰める”なんてもんじゃない。もう“ギリッギリ”だね。妻とは1個の生卵を2人で半分にして、ご飯にかけて食べてましたよ。マンションのオーナーが同情して12万円の家賃を8万円にしてくれた時はうれしかったな。

 最終的には10年かけて借金を完済することになるんだけど、ただ、悪いことは重なるものでね。ホテルが倒産した2か月後には、お袋(小桜葉子)が癌で亡くなったんです。それはもうすごくショックでね。僕は、親父(上原謙)にぶん殴られて育ったようなもんだけど、いつもお袋が助けに入ってくれた。だから、その温かさには感謝してたんだよ。

忘れられない母の言葉

 今でも忘れられないのは、小学生のころ、親父が撮影で長期間、家を空けていたので、庭に池を作ったことがあった。俺もよしゃいいのに、釣った魚を入れておきたくてさ。穴を掘ってセメント流し込んで、そこにコンクリ打っちゃったんです。帰ってきた親父は大激怒。俺の顔を見るなり、ボカーンと1発殴ってきた。「反省しろ!」ってね。

「畜生、この野郎」ってヘソ曲げて家出したんだよ。夜遅くなっても帰らずに、海岸付近の暗がりで1人ジッとしてた。そうしたら、遠くから「おにいちゃーん! 返事しなよ」って声が聞こえる。お袋がわざわざ迎えに来てくれたんですよ。最初は意固地になってたけど、お袋に「おにぎり持ってきたから、出てきなよ」って言われた途端に、諦めがついてね。「ここだよ」って(笑)。おにぎり4個、全部食べちゃったよ。

 それで2人で家に帰る道中、お袋が言ってくれた言葉が心に滲みてさ。「どんなことがあっても、お互いに話し合える仲でいようね」って。僕にとっては殺し文句みたいなもんでした。絶対に味方になってくれる。あの時のおにぎりの味は生涯忘れられないね。