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子熊が来れば、母熊もついてくる
2020年7月14日、道央にある山深いダム湖のほとりにチェーンソーの音が響き渡っていた。
この日、「北海道猟友会」芦別支部所属のハンター、岡田崇祚(たかとし、73・当時・以下同)は同僚の樺沢哲裕(37)と2人、「護衛」の任に当たっていた。「依頼主」は森林の生態調査を行う民間コンサルティング会社の社員3名。北海道の森林はほぼ全域ヒグマの生息圏であり、猟友会へのこうした依頼は珍しくない。
作業現場へ向かう道すがら、まだ新しいクマの足跡やフンを見つけたが、野生動物の生態調査という目的を持つ依頼主たちは、「幸先がいい」とむしろ上機嫌だった。だが岡田は、その中の一人が「熊鈴」をつけているのが気になっていた。
一般的に熊鈴にはクマに人間の存在を知らせ、クマの方で避けてもらう効果があるが、それも実は時と場合によるという。例えば好奇心旺盛な子熊の場合、鈴の音にかえって興味を持ち、寄ってきてしまうことがあるからだ。子熊が来れば、母熊もついてくる可能性が高い。
「申し訳ないけど、それ、外してくれないかい? コッコ(子熊)が寄ってくるといけないから」
その女性社員は不思議そうな顔をしながらも、岡田の言葉に従った。
この日の作業は野生動物撮影用のトレイルカメラを設置するというもの。現場は人間の背丈ほどのヤブが生い茂る荒地で、ところどころに大きな水たまりがあった。
カメラの視界を確保するために、散乱した枝木を払う必要があり、ちょうど車にチェーンソーを積んでいた岡田がその作業にあたった。本業は農家で、その手の作業に慣れている樺沢も手伝う。
「クマだ! クマ、クマ!」
チェーンソーを使い終わって、数十秒と経たないうちだった。
突然、湖畔の鴨がバタバタと飛び立った。ほぼ同時に水の上をバシャバシャバシャと「重みのある動物」が走ってくる音が聞こえてきた。
〈シカじゃない。これは……〉
岡田の耳を樺沢の声が鋭く打つ。
「クマだ! クマ、クマ!」
ヤブに隠れながらまっすぐ向かってきたクマは、いきなり岡田たちの40メートルほど前に飛び出し、その姿を現した。