アシスタントは高給。 “ホワイト企業”だった藤子スタジオ
藤子氏にはもうひとつの“家族”があった。日夜、創作を共にする「藤子スタジオ」のアシスタントたちだ。70年代にアシスタントを務めた、『まいっちんぐマチコ先生』などで知られる漫画家、えびはら武司氏(67)が振り返る。
「僕がアシスタントに採用されたのは高校を卒業するタイミングでした。10時から18時までという約束でしたが、実際はスタッフは昼頃来て、夜中まで仕事をしていた。そうすると残業代が出る。大卒初任給が約5万円の時代でしたが、僕らは残業代含めて月額10万円以上は頂いていました」
“ホワイト企業”だった藤子スタジオ。だがそれゆえの問題もあったという。
「あまりに待遇が良いので、オリジナルを描いてデビューしようという意識が削がれ、長く在籍する人が多かったように思います。これは、スタッフに優しすぎた先生たちの悩みのタネだったのかも」(同前)
えびはら氏は「ここは環境が良すぎる。長くいてはダメだ」と思い、2年で辞めたという。
「柔らかい漫画を描く藤本先生はあまり僕らとコミュニケーションを取らず、ブラックなテイストの漫画を描く安孫子先生は逆に凄く親しみやすかった。よく赤坂などで仕事終わりにお酒を御馳走になりました」
「いい意味で気を使わない、とても気さくな先生でした」
半世紀に及ぶ交流があったマンガ家の里中満智子氏(74)がその人柄を偲ぶ。
「安孫子先生は私を『さとまっちゃん』と呼んで下さっていました。さいとう・たかを先生や石ノ森章太郎先生と一緒に食事にもたくさん誘って頂いて。ある時『さとまっちゃんは何歳になったの?』って言われて、『もう40ですよ』と答えたら『ずっと少女だと思っていたけど、老けたねえ』って(笑)。いい意味で気を使わない、とても気さくな先生でした」
作品も人柄も愛された88年だった。