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2022/06/22

 佐々木の起用について、國保は専門家の意見を参考にしていた。とりわけ筑波大時代の恩師で、ピッチングの動作解析の第一人者である川村卓、そして野球選手を主に診察するスポーツドクターの馬見塚尚孝に対し、事あるたびに相談していた。

 そして、國保は、成長過程にある佐々木が160キロ超の剛速球を投げてケガを負うリスクを鑑み、決勝での起用を見送ったのだ。

「ここまでの球数、登板間隔……、投げられる状態にあったかも知れませんが、私が判断して投げさせませんでした。試合途中からマウンドに上げるつもりもなかった」

 私は現場で取材していたが、あの日の記憶は3年近く経過した今でも鮮明に残っている。

「本気で甲子園さ、行ぎたくねえのか!?」

 試合後、報道陣に囲まれた國保が佐々木の状態を説明していると、スタンドから心ない野次が飛ぶ。

 すぐさま擁護する声も飛び交ったが、國保は動揺の色を隠せなかった。グッと押し黙り、取材を一旦終わらせたほどだ。

大船渡高の國保監督(当時) ©共同通信社

 佐々木の登板回避は賛否両論が渦巻く国民的論争となり、國保は昨年夏をもって監督を退任している(現在は野球部の副部長として復帰)。佐々木がプロ野球で完全試合を達成した今となっては、あの日の國保の決断を批難する人はまずいない。怪物の将来を守る英断だと語り継がれていくはずだ。

「チームの勝利」と「佐々木の将来」

 佐々木の育成に携わってきた野球指導者たちは、國保に限らず、「チームの勝利」と「佐々木の将来」を天秤にかけ、後者を選択してきた。

 佐々木が野球を始めたのは、2010年、陸前高田市立高田小3年生の時だ。前出の村上は第一印象を次のように語る。

「昭和の時代は小学3年生でもキャッチボールは当たり前にできましたが、今は違います。ボールの握り方からフォームまできっちり教える必要がある。ただ朗希の場合は、3つ上のお兄ちゃん(琉希)がいたし、お父さんともキャッチボールをしていたのでしょう。投げることに関して何も教える必要はなかった」

 同級生に比べれば体は大きいが、飛び抜けてはいなかった。球速も、目を見張るようなものではない。それでも村上は、3年最後の試合で佐々木少年に投げさせようと思い立つ。それが前述の初登板だ。

「今年1月、地元の成人式で再会した時に確認したのですが、朗希は、あの日の対戦相手や場所までしっかり覚えていた。朗希にとっても特別な思いがあるのかもしれません」