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「自分の判断は正しかったのか」大船渡・國保元監督が明かした“佐々木朗希を預かるプレッシャー”

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2022/06/22

「お前には投げさせない」。佐々木はボロボロ涙を流した。ノンフィクションライターの柳川悠二氏による「佐々木朗希『怪物』を育てた男たち」を全文転載します。(「文藝春秋」2022年6月号より、全2回の2回目/前編から続く)

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「オール気仙」の仲間と甲子園を

 岩手県では中学3年生が最後の夏を終えると地域選抜チームが結成され、硬式球と同じ大きさ・重さでゴム製の「Kボール」でプレーする。中学で軟式野球をプレーした球児が硬式球に慣れるための取り組みだ。

 腰の痛みが癒えた佐々木は、沿岸部の球児が集まる「オール気仙」に加わった。「オール気仙」の代表をつとめた布田貢は、前出の鈴木や志田の恩師でもある。

「初めて朗希のピッチングを見たのは小学4年生の頃です。小6と同じぐらいのスピードボールを投げていた。フォームが美しく、小学生なのにストイックに野球に取り組んでいることが伝わってきました」

高3夏は岩手大会決勝で敗退 ©共同通信社

「オール気仙」が、布田が監督をつとめる中学の軟式野球部と練習試合を行った際、布田は「佐々木の真っ直ぐを狙え」と指示。すると佐々木は五者連続のヒットを浴びた。

「当時の朗希はストレートに頼りすぎていた。試合後に呼んで、『どうして打たれたのか分かるか。お前は真っ直ぐしか投げないだろう。いいか、速い球を活かすためには、変化球が必要なんだぞ』と。彼は指先も器用で、変化球も投げられた。スライダーやカーブといった変化球を効果的に使えば投球の幅は広がると伝えたかったんです」

 佐々木がクローザーを務めた「オール気仙」は岩手大会で優勝し、東北大会でも準優勝。それまで最速133キロだった佐々木は、Kボールで141キロを記録する。

「腰痛からようやく快復し始めた段階なので、無理させないようにしました。三振を多く奪っても、球数が多くなれば体への負担は大きくなるので、『球数を考えながら投げなさい』と指導していました」

「オール気仙」でのプレーを終えた佐々木は、進路の決断を迫られた。甲子園常連校の花巻東は、寮費以外が免除となるという、大谷翔平と同じ好条件を提示し、それでも迷っていた佐々木に対し「受験当日まで返事を待つ」と伝えてきたという。

 しかし、佐々木は大船渡高校を選ぶ。「オール気仙」で一緒だった仲間と甲子園を目指すためだ。また女手一つで三兄弟を育てる母の側にいたいという気持ちもあったという。