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文春野球コラム

「オレはサダハル・オーを認めない」とアメリカの友人に馬鹿にされ…日本の球場と“狭さ”の物語

文春野球コラム ペナントレース2022

2022/06/12

後楽園球場は両翼85メートルだった?

「今、思うと昭和の野球場ってものすごく狭かったよなぁ」

「ほとんどの球場が両翼91メートルくらいしかなかったもんね」

 先月、同じ昭和42年生まれの友人とお酒の席で野球談議に花を咲かせるうち、そんな話になった。

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 ジョッキに入った生ビールを美味しそうにのどに流し込みながら、記憶を辿っていることが丸わかりの表情で友人は続けた。

「小5だった1978年に両翼94メートルの横浜スタジアムが誕生した時、『94!? 広っ!』って思ったのよく覚えてるわ。とうとう日本にもこんな広い球場ができたんだと、子どもながらにジーンとしてなぁ」

「同じく。翌79年に両翼95メートルの西武ライオンズ球場が誕生して『おいおい、今度は95!?』ってなってね」

「巨人の本拠地だった後楽園球場が両翼90メートル、センターまでが120メートルだったよな。フェンスに大きく数字が書いてあったからよく覚えてる。でもあの数字、いつの頃からか表示されなくなってたよね?」

「実際に測ったら90メートル未満だったことが判明して、表示を消したって聞いたことがある。今、野球場特集雑誌のデータ上は87.8メートルになってるけど、以前、元阪神の掛布雅之さんに球場をテーマにした取材をした時『実際は85メートル程度だったらしい』って言ってた」

「85……!? 日米野球で来日したメジャーリーガーたちが初めて後楽園に足を踏み入れた時の『箱庭みたいな球場だな!』って小ばかにしたようなコメントが新聞、雑誌を通じて伝わってきてすごく悔しかったけど、そう言いたくなるのもわからんでもないな……」

後楽園球場 ©文藝春秋

オレはサダハル・オーが世界一だと認めない

 友人の言葉で、約40年前のある苦い記憶が甦った。

 時は1981年。前年秋に王貞治が現役引退し、入れ替わるようにゴールデンルーキー・原辰徳が入団したこの年、中学2年生だった私は、商社勤務だった父親の仕事の都合でアメリカ・オレゴン州に住み、現地の学校に通っていた。

 野球部のチームメートたちが唯一、知っていた日本人選手は王さんだった。4年前となる77年にハンク・アーロンの通算755号を抜く、世界記録を樹立。引退年の80年までに868本塁打を積み上げた「サダハル・オー」の名はインターネットもない時代にアメリカの田舎町にまでしっかり届いていた。

 ある日、日本から持参した王貞治引退特集号の雑誌を学校に持っていくと、「これが一本足打法ってやつか! カッコいい!」「刀をバット代わりにして練習してたのか! まさにサムライベースボールプレーヤーだな! だから世界記録を樹立できたんだな!」といった想像を超える嬉しい反応があり、私はすっかり気を良くしていた。

 そこへグレッグという名の部員が次のように言い放った。

「うちのお父さんが『日本の球場はアメリカの球場よりもかなりスモールらしい。だから日米の記録を比較するのはナンセンスだ。オレはサダハル・オーが世界一だとは認めてない』って言ってた」

 放課後の部室に突如、不穏な空気が流れ始めた。

「ケン、今、グレッグが言ったことは本当なのかよ」

 当時の私は、アメリカの球場のサイズをよく把握していなかったので、「わからない」と答えると、「サダハル・オーがプレーしていたトーキョー・ジャイアンツの本拠地のサイズはどのくらいなんだ?」と聞かれた。私は「両翼は90メートルだ(その時はまだそう信じていた)」と返した。

「メートル単位じゃよくわからないな。フィート単位だといくつだ」

 私はカバンに入っていたスケジュール帳についていた単位早見表を取り出し、電卓を叩いた。「295フィートかな」と答えると、部室は吹き出すかのような笑いに包まれた。

「295!? 笑わせんなよ! スモール過ぎるだろ!」

「両翼は330フィート(100.6メートル)はないとプロの球場とは言えねえよな」

「サダハル・オーがアメリカでプレーしてたら通算ホームランは大幅に減るんじゃね?」

「少なくともハンク・アーロンの記録は抜いてないよな。グレッグのお父さんがいう通り、おれも世界一だとは認めないわ」

「おれも!」

 猛烈な手のひら返しに私は半べそをかきながら学校を後にした。

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