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「客席がサーッと引くのが手にとるように分かった」あの志村けんが…“石みたいだった”ドリフ新参者時代

『ドリフターズとその時代』#1

2022/06/17

source : 文春新書

genre : エンタメ, 芸能, テレビ・ラジオ, 読書

 日本のテレビ史において、ザ・ドリフターズは一時代を築いたレジェンドだ。代表的な番組『8時だョ!全員集合』の最高視聴率は50%を超え、2022年現在も総集編がゴールデンタイムにテレビ放送されている。そんなドリフターズの一員である志村けんさんの訃報から早2年が経った。

 ここでは、著書に『昭和芸人 七人の最期』などがある演劇研究者・笹山敬輔さんの『ドリフターズとその時代』から一部を抜粋。志村けんさんがドリフターズに加入した当時の裏側を紹介する。きっかけは、荒井注さんの脱退宣言だった――。(全2回の1回目/後編を読む

志村けんさん ©文藝春秋

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荒井注脱退

 理由は体力の限界である。体を張ったギャグが要求される『全員集合』では、メンバーのケガが絶えなかった。荒井は右の手のひらに7針、眉のなかに4針の縫い跡があり、満身創痍(そうい)だった。

 くわえて、3年前から肉体的な疲れがひどくなった。夜中に必ず寝汗をかくようになり、微熱が引かない状態がいつまでも続いた。心配になって医者に診てもらうと、病気ではないが、慢性的な疲労が原因だと言われる。10歳以上も年下の加藤や仲本と一緒になって、舞台の上を走りまわるのがつらくなっていた。リアクションのテンポが遅れることへの不安もあった。

 もうドリフの激しい動きにはついていけない。そう覚(さと)った荒井は、強い決意をもって脱退を宣言した(『週刊平凡』1974年3月28日号)。

 それに対していかりやは、荒井と話し合いの場を何度も持ち、必死で説得を試みた。メンバーが一人抜ければ、今まで築きあげてきた関係性の笑いが崩れてしまう。また、このことが蟻の一穴になって、加藤や仲本が次に続くかもしれない。実際、荒井と一緒に脱退するつもりだったと、のちに加藤が証言している。荒井の脱退がドリフ崩壊につながる可能性は充分にあった。

 だが、どれほど引きとめても、彼の決意は変わらなかった。いかりやには、荒井の考えが理解できなかった。

1974年にドリフターズを脱退した荒井注さん ©文藝春秋

 素人が歌うオーディション番組の伴奏をしていたドリフが、番組のメインを張るようになり、クレイジーを凌ぐグループにまで育った。ドリフは今ようやく花が咲き、実を結ぼうとしている。メンバーの収入もこれから上がるだろう。そんな一番良い時期になぜ辞めるのか。金にも人気にも未練を残さない彼の人生哲学とは何なのか。

 荒井はコメディアンとしては異色の文学青年だった。本名荒井安雄は、1928年7月30日に東京の四谷で生まれている。いわゆる江戸っ子なのだろうが、幼少期については資料が乏しく、よく分からない。

 高校を卒業して立教大学に入学するも中退し、数年後に二松学舍大学文学部国文学科に入り直して、中学と高校の国語の教員免許を得ている。もとは脚本家志望で、部屋の本棚には文学作品が並び、『全員集合』の稽古場でも太宰治や三島由紀夫を読んでいた。

 バンド活動をはじめるきっかけは、学費を稼ぐためのアルバイトだった。最初はハワイアンバンドでスチールギターを弾き、途中からピアニストに転向した。ピアノの腕前には諸説あるが、指が短くて一オクターブが届かなかったとの証言もあり、けっして上手くはなかったようだ。

 ドリフ加入前はクレイジー・ウエストに所属し、ジャズ喫茶の余興に童謡を歌ってウケていた。そして1964年にいかりやと出会い、ドリフに勧誘される。