文春オンライン

雪面から突き出た紫色の右手…クマ狩りに出た猟師5人の身に一体何が起こったのか

2022/09/09

 読者諸賢は冷戦下のソ連(当時)で起きた「ディアトロフ峠事件」をご存じだろうか。

 これは1959年2月、ウラル山脈のホラート・シャフイル山(現地の言葉で「死の山」)で雪山登山をしていたウラル工科大学の学生と卒業生の男女9名が遭難、後に全員遺体となって発見されたもので、一種の「未解決事件」として知られている。

 というのもマイナス30℃の極寒の中、なぜか全員が裸足でテントを飛び出し、バラバラの場所で死んでおり、中には眼球や舌が無くなったり、高い線量の放射線を帯びた遺体もあるという異様な現場の状況を明確に説明する事故原因が不明だったからである。

ADVERTISEMENT

「ディアトロフ峠事件」の真相を追った、ドニー・アイカー著『死に山』(2018年)河出書房新社

 私は若いころ、この事件を「スプートニク」(ソ連版の「リーダーズダイジェスト」のようなもの)という雑誌で読み、興味を抱いた。

 何が彼らを死に追いやったのかーーその謎をめぐっては、これまで大規模な解明が試みられてきた。先住民による襲撃、軍隊による秘密兵器実験、特殊な気象現象など陰謀論めいたものを含む様々な説が唱えられてきたが、2020年になってロシア連邦の最高検察庁が「雪崩が原因」と発表して、一応の決着をつけた格好になっている。

猟師の遺体は紫色に変色していた

 さて、ここからが本題だ。実は明治期の日本においても「日本版ディアトロフ峠事件」とでもいうべき事件があった。

 私はクマの研究者として、クマが生息する地域の地方紙を過去100年分ほど遡って読んでいるのだが、この事件の初報は、明治20年(1887年)4月16日付の「新潟新聞」に載っている。

「怪しき最後」というタイトルがつけられた記事は、こう始まる。

〈南魚沼郡清水村の阿部五郎平、同勝五郎、同正吉、小野塚文造、同文吉の五名は去る(*四月)一日熊猟に打ち連れ立ち二斗ほどの米を用意して名にしおう清水の険阻を攀登り寶川という深山へ分け入りしが十日余も日を経るも帰り来らざれば……〉

実際の新聞記事の写真

 要約すると、南魚沼郡清水村の安倍五郎平ほか5人の猟師が2斗(約30キロ)の米を持ってクマ猟のために険しい峠をこえて「寶川」(*宝川。利根川の源流部)付近の山に入ったが、10日経っても戻って来ない、というわけだ。クマと渡り合う山系は2000m級の山々が連る豪雪地帯である。