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「世界一好きな野球選手」とあるドラゴンズファンが綴る福留孝介への思い

文春野球コラム ペナントレース2022

2022/09/16
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「今シーズン限りをもちまして、現役を引退することを決めました。それをこの場で皆さまにご報告させていただきます。24年間、本当に……ありがとうございました!」

 福留孝介がプロ野球選手でなくなる。本人の口から引退の旨を聞いて、泣けてきた。30代半ばにもなると、子供の頃から観てきた選手がどんどんいなくなっていくものだ。

 私にとって福留は、最後の「子供の頃から観てきた選手」であり、「世界一好きな野球選手」だった。

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福留孝介

なぜ福留が「世界一好き」なのか

 あんなオールラウンダーになってみたい。迷いなくフルスイングして、バットを放り投げたい――。東海地方で白球を追っていた少年たちは、こぞって背番号「1」の福留に憧れた時代があった。

 私も、福留に憧れた一人だった。野球部では打撃面には自信があったが、他はからっきし。本当は福留のように走攻守三拍子揃った選手になりたかった。自他共に認める不器用ゆえ、器用にこなせる選手に憧れた。それが好きになるきっかけだった。2002年、中学3年生のときだった。

 以降の20年間、私はずっと福留のことを推し続け、「世界一好きな野球選手」と公言してはばからない。メジャーに行っても、阪神に行ってもそれは変わらなかった。もちろん、ドラゴンズに帰ってきたときは諸手を挙げて喜んだ。改めてなぜ「世界一好き」なのかを考えると、中3のときの「記憶」を忘れたくないからなのかもしれない。

引退会見で見えた「やり切った感」

 引退会見の最中、涙でグジュグジュになっている私とは正反対に、福留は端末の向こうで穏やかな笑みをたたえていた。決して勝負師の表情ではなく、ひとりの45歳男性、父親の顔に見えた。涙は一切ない。

 時折口を「への字」にしながら質問に答えたり、ドヤ顔でスカした回答をぶっ込んだりするのもいつも通りだ。よく「悔いはあります」とか「やり残したことがある」と言いながら現役を退く選手がいるけれど、福留は間髪入れずに「スッキリしてます」と。ここまでやり切った感を出す選手も珍しい。

 唯一感情が揺れたのは、立浪和義監督について言及したとき。それまでは質問を咀嚼しながら答えていたが、初めて食い気味に「最初から最後まで憧れの存在だったことは間違いない」と言い切った。そして、力になれなかったことを悔やんでいた。このときだけは、心なしか瞳が潤んだように見えたのは私だけか。

逆境に強く、逆境を跳ね返す男

 逆境に強く、逆境を跳ね返す男だった。

 プロ入り初年度こそ打率.284、16本塁打でチームの優勝に貢献するも、2年目以降は数字を伸ばせず、入団時の期待度からすると物足りない成績に。このまま埋もれてしまうのかと思われた4年目、佐々木恭介コーチとの出会いが福留を一流打者に変えた。軸足に体重を乗せて打つ新打法を1日3000スイングとも言われる練習量で習得、その年のシーズンで松井秀喜の三冠王を阻止したのは今も語り草だ。

 2006年、第1回WBCでの活躍もそうだった。この年から打席時の構えを大きく変えた影響で調整がうまくいかず不振に陥り、韓国との準決勝ではスタメンを外れた。それでも両軍無得点の7回表、1死二塁の好機で代打に送られた福留は、鮮やかな先制2ランをぶっ放す。TBS・松下賢次アナの「生き返れ福留!」の名文句が生まれたのもこの瞬間だった。この一打で文字通り「生き返った」福留は決勝のキューバ戦でも適時打を放ち、日本の初代チャンピオンに貢献。世界にその名を轟かせた。

 一番の逆境は阪神時代だったかもしれない。米国で5年間プレーするも、最後の年はほとんどがマイナー暮らしだった。心機一転、阪神で日本球界に復帰。米国との野球の違いでアジャストに時間がかかり、加齢によるパフォーマンスの低下も相まって、残念ながら初年度から期待に応えたとは言い難かった。それでも移籍3年目の2015年にチームトップの20本塁打をマークすると、以降は主力に君臨。結果、ドラゴンズに次ぐ8年間、タテジマのユニフォームに袖を通し続けた。

 余談だが、酔った阪神ファンのコールにキレたことがある。ソフトバンクとの日本シリーズをスポーツバーで観戦中、福留は何度もファウルで粘っていた。それなのに「3度も(バットに)当たった福留!」は酷いなと。でも、直後にタイムリーを打って彼らを黙らせてくれたのは最高だった。あの阪神ファンたちも今は福留のことを慕ってくれているといいのだけれど。

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