村田兆治さんは1949年11月27日生まれ。1968年に現ロッテの東京オリオンズにドラフト1位で入団した。片足を大きく振り上げる独特のピッチングフォームは「マサカリ投法」と呼ばれ、そこから繰り出される速球やフォークボールで打者をほんろうした。
1975年、76年と2年連続でリーグの最優秀防御率のタイトルを獲得し、1981年には最多勝に輝く。しかし、1982年に肘を痛めたことで治療のために渡米。左腕の腱を右肘に移植するという選手生命がかかった大手術を経験しながらも1985年にはシーズン17勝を挙げ、カムバック賞に輝く。
1990年に現役を引退した後は野球評論家として活躍。現役時代の活躍が評価され、2005年には野球殿堂入りを果たす。また、引退後は日本全国で野球教室を開き、後進の指導に当たっていた。2008年からは離島で対外試合の経験が少ない中学生のために「離島甲子園」を主催するなど精力的に活動していた。
「兆治が野球界に果たした貢献はとても大きい」
張本勲さんは村田さんと一緒に野球教室で子どもたちの指導にあたることが多かったという。その村田さんの働きぶりをこう評価していた。
「25年以上も北から南まで一緒に全国を回っていました。ポンポン船に乗って離島までいくなんてそうそうできる事じゃありませんよ。現役の記録だけではなく、兆治が野球界に果たした貢献はとても大きいと思います」
引退後も多忙を極めていたその様子を近隣住民が語る。
「現役の頃は近所の公園でトレーニングする姿を見かけることがありました。ジョギング位のペースでランニングをしていましたね。ただ、引退されてから数十年は近所で姿をお見掛けすることはほとんどありませんでした。火事になったご自宅も人が住んでいるかもわからないくらい留守がちでした」