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「欧州や南米出身の選手とは違う眼で見られる理不尽」岡崎慎司がドイツで味わった“アジア人は下に見られている感覚”

岡崎慎司選手インタビュー #1

2022/11/27

 マインツ、そしてシュトゥットガルトなどドイツ・ブンデスリーガで4年間にわたりプレーしマインツ時代には15得点を挙げるなどドイツでめざましい活躍した岡崎慎司。

 だが、2008年の北京五輪代表に選ばれるまで、まったく無名と言ってもいいほど、日の丸とは無縁の存在だった。いかにして釜本邦茂氏、三浦知良選手に次ぐ日本代表歴代3位(50点)を記録するフォワードとなったのか。ドイツ・ブンデスリーガで味わった“感覚”、そして歴史的勝利となったカタール大会ドイツ戦のことをどのように見たのか。(全3回の1回目/#2#3を読む)

 

スタートは「8人いるフォワードの8番目の選手」だった

――2005年滝川第二高校を卒業して、清水エスパルスとプロ契約を結びましたが、当時の長谷川健太監督からは厳しい評価を下されたと聞きました。

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岡崎 そうですね。「8人いるフォワードの8番目だ」って言われましたね。まあ、そりゃそうだなという感じもあったんですよ。高校時代も最初は一番下のグループから這いあがったので、プロでも同じだなと考えていました。くわえて、監督からは「サッカーを知らなすぎる」とも言われたので、そこから海外サッカーを見るようになりました。そこでオフ・ザ・ボールの重要性など、いろいろと学べました。

 

 

――当時はフォワード以外のポジションでもプレーしていましたね。

岡崎 はい。ボランチなどでプレーしましたね。守備的な場所で、プレーすることで、守備力のあるフォワードになれるって考えていました。常にフォワードでプレーすること、ゴールをイメージしていました。

――違うポジションで修行をしているような感覚だったんですね。

岡崎 そうです。でも、自分の記憶って怪しいなと思うことがありました。数カ月前に当時の先輩だった田坂(和昭)さんにお会いしたんです。田坂さんはボランチだったんですけど「あの頃のオカは、フォワードでという話はまったくしていなくて、ボランチや右サイドバックをやりながら、そのポジションで結果を残すために何が必要ですか? どうすれば活躍できますか? と聞いてきた」と言っていて。僕の記憶とはちょっと違いました(笑)。

 

――与えられたポジションで結果を残そうと考えていたんですね。

岡崎 多分、ポジションとか以前に、ただただ試合に出るために必死だったんだと思います。だけど、のちにフォワードとして活躍できたから、さも昔からそれを狙っていたかのように、記憶がすり変えられていたみたいな。

――しかし、エスパルスでポジションを掴んだ当初はミッドフィルダーでしたし、その後もいろんなフォワードとコンビを組みながら、結果を残していったことを考えると、現状を把握して、何をすべきかという思考がルーキーのころからあったと感じます。

岡崎 かもしれませんね。フォワードサポートしながら、ゴールを決めたり、2トップを組む選手との関係性や使われ方を変えながら、僕自身のプレースタイルを変えてきたんだなと、改めて思いました。ヨーロッパでプレーしながらも、その時々、当たり前のようにやっているだけなんだけれど、結局、「その立場で何をすればいいのか」というふうに昔から考えていたんですね。