キュリー夫人が有名になる前の話
もう一人の偉大な女性科学者も取り上げたい。女性初のノーベル賞を、しかも二度も受賞したマリー・キュリーだ(1903年に放射線研究により夫と共に物理学賞、1911年にラジウムとポロニウムの発見により単独で化学賞)。
彼女の旧名は、マリア・サロメア・スクウォドフスカ。ポーランド人。彼女が生まれた当時の祖国はポーランド立憲王国とは名ばかりで、帝政ロシアの衛星国にすぎず、ロシアのツァーリが国王を兼ねていた。
民族蜂起を懸念(けねん)したロシアはポーランド貴族を粛清し、知識層の行動を制限した。スクウォドフスキ家は下級貴族で、父親は物理を講義する教授、母も教育者だった。仕事も邸やしきも取り上げられ、一家(両親と一男四女)は移り住んだ狭い家で細々と寄宿舎を経営したが、生活は苦しかった。そんな中、マリー10歳の時、母が結核で亡くなる。2年前には長姉がチフスで亡くなっていたので、2番目の姉ブローニャ(ブロニスワヴァ)が母代わりとなった。
マリーは官立女子中等学校を首席で卒業すると、一大決心をする。ポーランドでは女性の大学進学が許されていなかったため、パリのソルボンヌ大学で医学の勉強をしたいというブローニャを、自分がガヴァネス(住み込みの家庭教師)として働いて援助するというのだ。ブローニャが医者になったら、今度はマリーをパリに呼びよせ、大学へ行かせてもらう約束だった。
確かにこのままだと「世の中に貢献したい」という兄弟姉妹の希(のぞ)みは貧困に圧し潰(つぶ)され、誰も成就できなくなる。一人ずつ順に進むほうが可能性は高くなるだろう。しかし下手をすると援助された者だけが浮き上がり、援助した方は沈みっぱなしになる可能性もなくはない。相手への深い信頼と強い信念があってこその選択だ。
もしマリーが気弱な男と結婚していたら…
18歳から6年間、マリーは給与の半分を姉に仕送りし、いくつかの家で働いた。だが他人の家に居候(いそうろう)し、爪に火を灯(とも)すような生活が何年も続くと、さすがに従妹への手紙で愚痴(ぐち)をこぼすようになる。曰(いわ)く、自分には運がない、永遠にここから抜け出せないような気がする、前はパリへ行きたかったけれど、とうにその夢は消えてしまった、と。