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《特別公開》鈴木おさむ『小説「20160118」』

《特別公開》鈴木おさむ『小説「20160118」』

SMAPのいちばん長い日――“公開謝罪番組”担当の放送作家が描く崩壊と再生

2023/01/20
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鈴木おさむ氏が発表した話題の作品「小説『20160118』」。人気男性歌手グループの崩壊と再生、最後に一筋の希望を感じさせる物語だ。鈴木氏は20年以上にわたり、「SMAP×SMAP」の放送作家を担当したが、物語は、2016年1月18日の謝罪生放送の舞台裏を想像させる。特別に一部を公開する(「文藝春秋」2023年1月号より)。

 原稿を書き進める手を止めて、スマホを覗くとネットに流れてきたニュース。

 人気俳優が事務所から独立するという。ここ数年でよく目にするようになったこの手のこと。長年お世話になった事務所を離れて独立するということは、この芸能界ではずっとタブーと思われているところがあった。昭和だけでなく平成になっても。

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 だが、令和の扉が開くと、その行動を起こすものに対して、随分とそれは軽くなった気がする。変わったのだ。その変化が起きたのは、「あの放送」があったからじゃないかとふと思ったりする。

 テレビ番組が作りたくて作りたくてこの世界に入った自分が。人を笑わすために、そんな番組を作りたくてこの世界に入った自分が、その放送に作り手として参加していた。

 沢山の人に涙を流させてしまった「あの放送」に。

 今でもずっと胸に刺さっている。

 あの日に、僕は放送作家として、終わった。

©文藝春秋 カット・城井文平

【2016年 1月18日 午前1時半】

 日曜日の深夜だというのに、そのクラブのフロアには大勢の人が溢れていた。クラブなんて来たのは何年ぶりだろうか。

 この日、僕が作・演出した芸人さん主演の舞台の上演が大成功し、打ち上げの後にクラブに行こうと盛りあがり、やって来たのだ。

 祝杯を挙げて、フロアに流れる音楽に身を委ねる。テンションが上がってきた。「今日は飲むぞ」と3杯目のハイボールを頼んだ時だった。

 携帯が揺れた。

 嫌な揺れ方をしている気がした。電話の相手は番組のプロデューサー「ハルタ」だった。

 この舞台の本番を翌日に控えた1月13日。その日の朝、突如としてスポーツ新聞の一面に出た国民的人気グループの「解散」の文字。この新聞の記事をきっかけに世間は大騒ぎになっていく。

 本当に解散するのか?

 様々なワイドショーで取り上げられ、「解散しないで」という沢山の「願い」と「悲鳴」が大きな渦になっていった。

 リハーサルの為、1月13日の昼に劇場に入ると、楽屋にはスポーツ新聞が置かれていた。出演者もスタッフも、みんながスポーツ新聞に書かれていることを僕に聞きたくて仕方ないのは分かった。でも、吞み込んでくれていた。

 2015年の年末あたりから、ざわついているのは感じていた。だけど番組を作る側の僕たちには、真実は降りてこない。

 そんな中、自分たちが出来ることは番組を作り続けることしかなかった。

 13日に新聞の記事が出てから、ハルタ達とは何度も電話で話をしたが、真実は分からず、僕たちが出来ることは番組を作り続けることだけだった。

 だが。2016年1月18日。午前1時30分。

 夜中に震える携帯を見た。不思議なもので嫌な電話というものは携帯の揺れ方で分かったりするものだ。嫌な予感が体を走るが、出ないわけにはいかない。

 フロアを走り抜けて、階段を上がりながらハルタからの電話に出た。

 少し息を切りながら「どうした?」と聞くと、ハルタは言った。

「大変申し訳ないですが、今からフジテレビに来ること出来ますか?」

 僕はクラブを出た。

【2016年 1月18日 午前2時15分】

 レインボーブリッジを渡っていると、見えてきたお台場のテレビ局。

 真夜中なのにライトに照らされ輝いている。

 その時間にそこに行ったことは初めてではない。真夜中に輝いているテレビ局を見て、夜中でも視聴者を笑顔にする娯楽を作り続けている場所に行くことに、ワクワクした。

 だが、この日はそうではなかった。

 橋を渡るときに感じたのは、不安と恐怖だったかもしれない。

 1月18日の夜10時15分から放送される「番組」はもう完成してあとは放送されるのを待つだけなのだが、もしかしたらあれは放送されないのかもしれないという気がした。

 タクシーを降りて、空を見上げると、冬の空に星が輝いて見えてた。

 いつも僕の真上に強い光を放ちながらずっと輝いていた5角形の星の光。

 この夜から、その光が薄く見えた気がして。心臓の鼓動が速くなった。不安を取り除くために、深く大きく深呼吸をして、テレビ局に入った。

 13階までエレベーターで上がって行くと、血液が一気に頭に上がって行った。

 会議室に着くと、プロデューサーのハルタ、演出のノグチを筆頭に、ADを含めて20人近くのスタッフが集まっていた。

 それを見て、「何か」が起こることがわかった。

 ハルタが言った。「今夜の番組の一部を生放送にすることになりました」。

 番組が始まってから20年。

 アイドルがアイドルを超えることを実現させたこの番組は、時折、国民をあっと驚かせる放送をすることもあった。今までこの番組を急遽生放送にしたことは何度かあった。急遽とは言っても、最低1週間前には決まっていた。

 当日に一部とはいえども急遽生放送にすることは初めてだった。

 一言でいうと「ありえない」ことだが、ありえないことを実行しなければならなかった。

 その生放送は番組側が提案したことではなく、彼らが所属する事務所から「こうしてほしい」という強い願いがあり、局側もそれを受け入れ、緊急の生放送が決まったのだという。

 ここ数日、世の中を大きく騒がせていることに対して、何かしらの答えを届けるのだということはわかったが。

「何を放送するの?」

 僕がハルタとノグチに聞いた。

「まだ何をするのかが決まってないんです」

 そう言った。

「緊急生放送は決まっているのに、放送する中身が決まってないってどういうこと?」

 決まっているのは、世間を騒がせている「解散報道」に対しての「説明をする」ということだったのだが、何をどう説明するのか? どんな放送になるのかは何も決まってなかった。

 こんな状態で今夜生放送を行うなんてありえない。だけど、ありえないでしょと思っているのは、ハルタ、ノグチ、番組スタッフ全員だったはずだ。

 だが、やるしかなかった。

 この時点で、この国民的グループを育て作り上げてきたマネージャーさんは外れていた。

 このグループはもちろんだが、放送作家として若くていきがってた22歳の僕を面白がって、チャンスを与えて育ててくれた人でもあった。エンターテインメントを作ることをとことん教えてくれた。僕が世界で一番尊敬している人。

 彼らの番組を作る時は必ず、まずこの人の考えをもとに動いていた。

 この時も、すぐさまその人に電話して「どうしたらいいんですか?」と聞きたかったが、一番、悔しい思いをしているのはその人だろう。だからその気持ちを力ずくで閉じ込めた。

 自分たちでやるしかないのだ。

【2016年 1月18日 午前3時半】

 夜中3時を過ぎているのに、ハルタや他のスタッフの電話が何度も鳴る。

 僕とノグチは、生放送の中で出来るあらゆる可能性を探る。

 いきなりの緊急生放送。番組が始まって20年、これまであらゆる困難を超えてきたはずだが、今回は、今まで学んできた方法論が当てはまらない。手探りで捕まえようと思えば思うほど、何も捕まえることが出来ず焦っていく。

 テレビ番組とは「ナマモノ」である。ドラマは「作り物」でワイドショーやニュースは「リアル」である。バラエティーはリアルに見せた「ファンタジー」であると思っている。

 出演者はプライベートで辛いことがあったとしても、それを隠し誰かを笑わせようと一生懸命になる。その「辛いこと」が世間に出ない限りそれは成立していく。

 だが、例えば自らの命を絶ってしまった人がいて、それがニュースとなった場合、翌日放送される番組の中でその人がどんなに面白いことを言ったとしても、それは笑えない。

 2016年になってから世間を騒がせまくっている「解散報道」に対して、何も言わずに番組を通常放送にしたとしても、視聴者は「今日、番組で何か言うかも」という思いが強すぎて、普通に楽しむことは出来ない。

 だから生放送にして「説明する」ことには大賛成だ。だが、何をどう説明するのかが決まってない。

 放送まで20時間を切っているのに、そんなことありえない。

 僕とノグチが一番気になっていたことは「解散するのか? 解散しないのか?」ということだった。

 それによって説明することが大きく変わってくる。解散するとなったら、短い時間で説明できることではない。

 だが、ハルタが言うには「解散はしない」ということだった。だからその説明をする場になりそうだと。

 番組の制作のトップであるプロデューサーや演出、全ての人が「〜らしい」「〜かもしれない」とつけて話す。

 番組を作らなければならないこの現場でも、なぜ緊急で生放送することになったのか? 誰がそれを望み誰の意志で作られるのかがよくわからないまま、進めなければならない。

 不気味だった。

 その不気味さが拭えないまま、やらなければならない。そんな中で、ようやく情報が少しずつ整理されて伝えられてくる。

 事務所側の希望としては、今回の騒動で世の中の人に沢山の心配をかけたから、それを番組ではなるべく明るく前向きに説明をしたいということだった。

 そして出来れば最後に歌を歌う。彼らのヒット曲を。

 僕もそういうものになるのだと思っていた。

 正直、どんな話をしたとしても、最後にみんなが笑顔を見せて歌ってくれれば、番組を見た人の頭の中から「解散」という文字は溶けていくんじゃないかと思っていた。

 でも。時間とともに、そんな簡単なものじゃないことに気づかされていく。

 結果、日本の芸能、テレビ史上ない、いびつな番組になってしまった。人を笑顔にするバラエティー番組のはずなのに。