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「『俺を殺す気か』って目を剥いた」毒蝮三太夫が名付け親・立川談志の思い出を語る

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 天才落語家として知られた立川談志さんが、喉頭がんで亡くなったのは2011年11月21日。今年は十三回忌にあたる。

 その節目に、談志さんと50年を超える交遊があった俳優でタレントの毒蝮三太夫さんが、その思い出を「文藝春秋」3月号に語った。

偶然電車の中で出会い、意気投合

 1936年3月の早生まれの毒蝮さんと、1935年12月生まれの談志さんは同学年。今年、87歳になる毒蝮さんは、張りのある声で談志さんとの出会いをふり返った。

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毒蝮三太夫さん ©文藝春秋

 当時、二ツ目で、柳家小ゑんを名乗っていた談志さんを紹介したのは、毒蝮さんの劇団仲間で、俳優・声優として活躍した小林勝彦さんだったという。

〈第一印象は最悪だったんだ。小ゑんは当時、流行していた「マンボズボン」を穿いて、上は赤いジャンパーにベレー帽。「なんだか、チャラチャラした奴だな」と思ってね〉

 ところが、その後、偶然、電車の中で出会い、二人は意気投合。それから長い付き合いが始まった。

 そのころの談志さんは日の出の勢いで、落語から漫談まで、寄席から日劇ミュージックホール、キャバレーの営業と大活躍だったという。

キャバレーのお客を笑わせるのは本当に難しい

〈二ツ目なのに、真打がやる大ネタ、「鼠穴」や「芝浜」を平気でかけてた。「あんな大ネタ、誰から教わったんだ?」と聞いたら、「袖で聞いてて覚えちゃった」って。天才だったんだろうね〉

〈話術の「腕」は本物だった。キャバレーに営業に行って、アイツが好きなフランス小咄みたいな、今でいうトークをしてた〉

〈俺も小ゑんにそそのかされて舞台に立ったから分かる〉という毒蝮さんは、キャバレーのお客を笑わせるのは本当に難しいと語る。

〈漫談を聞きに来る客なんていないから、まともに聞いてくれないんだ。ところがアイツだけは特別だった。漫談の間合い、緩急が絶妙でね〉

 毒蝮さんの結婚式で司会を務めたのは談志さんだ。引き出物を用意する余裕がなかったため、談志さんが一計を案じた。受付で人物名が書いてあるカードを渡し、抽選で当たった人に、毒蝮さんの自宅にあるものを景品として引き渡すというもの。