ハリウッド映画づくりからニューヨーク進出までさまざまな取り組みを行ってきた80年代、米国事業はずっと赤字のままだった。
そのくせ1990年になってもサンリオの海外売上高は全体の5%にも満たなかった。だがこのあきらめの悪い悪戦苦闘の中にこそ、その10年後に輝く種が眠っていたともいえる。
「子供時代にキティに触れたアーティスト」がスターになってから、パブリシティに多大な影響を与えるのだ。
モデル・テレビ司会者のタイラ・バンクスが2001年MTVアワードにキティのハンドバッグをもって姿を現すと、同じように歌手・女優のマンディ・ムーアもビルボードアワードの授賞式でキティの刺繍バッグをもち、ニューヨークではマライア・キャリーがキティのラジカセを持参してカラオケ熱唱。
シンガーソングライターのリサ・ローブを代表に、キティ好きアーティストは米国で多く登場し、遂にはレディー・ガガともタイアップも実現させている。
当時米国でキティは「おしゃれ」の代表となり、同時にマイノリティ人種やLGBTが反体制のシンボルとして使いだした。政治メッセージすら象徴する一大キャラクターとなった。
世界中で起きたキティブームの仕掛け
SPLも1996年ごろから外国人観光客が増加、ディズニーランドの5%と比べると倍となる全体の10%が外国人観光客といった数字もたたき出しており、そこから20年後に起こる日本のインバウンドブームの先駆けともいえる。
もちろん日本でも1997年ごろから華原朋美が身に着け、女子高生の間で「キティラー」が多く誕生していたこの時期、実はサンリオも意識的にブランドPRを活用していた。
四半期ごとに50~70人の有名芸能人に自社商品を送り、間接的なPRは戦略的に行われていた。
日本ファンシーグッズ市場の8割をサンリオ1社が独占するような状態で、それが北米やアジアにも一大キティブームを巻き起こしていたのだ。
2002年アジア全体の中で、ソニー、キャセイパシフィック航空に次いでキティは「3番目に有名なアジアブランド」にも輝いている。