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朝ドラ『らんまん』主人公のモデル「日本の植物学の父」と呼ばれた牧野富太郎が、6歳で経験した"あまりに壮絶な別れ"

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genre : エンタメ, 歴史, テレビ・ラジオ

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岸屋は、豊富な良質の水を活かした酒造りと雑貨(小間物)を売る商家だったが、お目見得(めみえ)町人といい、普通は武家でなければ認められなかった、苗字をもつことや刀を所持することを藩主から許されていた。商家としては、村では数少ない格式のある家で、近在にもその名が知られていたらしい。

4月22日、24日、26日……誕生日が諸説ある

由緒書きによれば、旧暦の4月24日(現在の暦では5月22日)が牧野富太郎の誕生日となっているが、実のところ、4月の何日に生まれたかは定かではないようだ。母・久壽(ひさえ)の胎盤と彼をつないでいた管(くだ)の残骸である“臍の緒”を収納した、いわゆる「臍の緒袋」の表書きには4月26日という別の日付が書かれており、これが正しければ、富太郎が母から離れ、この世に生まれ出たのは4月26日となるはずだ。ところが、厄介なことに戸籍簿には、24日でも26日でもない日付である4月22日が富太郎の誕生日として記入してある。なぜこうも誕生日を巡っていくつもの日付が生まれたのか、その理由はわからないらしい。

混沌とした生涯の始まりを象徴している

誕生日を祝う風習が定着している今日では、誕生日に諸説あるのは大いに問題となるだろう。しかし、富太郎が生まれた頃は、誕生日よりも干支(えと)の何年(なにどし)に生まれたかが重要だったのだ(ちなみに牧野富太郎は戌年生まれである)。それというのも当時は皆、正月に1歳、年をとる年齢の数え方である、「数え年」が用いられていたからである。誕生日で年齢を数える「満年齢」が日本で普通になるのは、ずっと後の太平洋戦争以降ではないだろうか。

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それもたしかにあっただろう。富太郎の生家でも彼の誕生日の不確かさを問題にしたことはとくにはなかったそうだ。が、筆者は生誕の日からして特定し得ない富太郎の出生こそが、後述する毀誉褒貶(きよほうへん)の入り交じる混沌とした生涯の始まりを象徴しているように思えてならない。彼の伝記ほど、真偽の分別の困難さに突き当たるものはない。そんな科学者・植物学者の存在を筆者はまったく他に見出すことはできないのだ。