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これでは極刑もやむを得ない…「死刑廃止」を訴え続けた教誨師が唯一さじを投げた死刑囚の言動

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執行時にも何かトラブルを起こしたのか「追って記すべし」と田中は書いているが、それについてはどこにも記載されていない。田中は脱獄を考えたり、試みたりした死刑囚、つまり獄則に従順ではない死刑囚への観方は厳しかった。だから脱獄を企て、看守の帯剣まで奪おうとしたこの男については、死刑は仕方がなかったのではないか、と思ったようだ。それでも教誨に十分な時間があれば、田中は別の表現をしたかもしれない。

「死刑やむなし」と記した死刑囚の言動

田中がはっきり、死刑もやむなしと記した死刑囚がいた。

長野県出身の蚕網製造業者の死刑囚(39歳)である。1907(明治40)年12月4日深夜、金品強奪のために織物生地商宅の厠の窓から忍びこんだ男は、座敷に押し入ったところ、幼児を含めた家人3人が気づいて大声を上げたため、短刀で次つぎに刺殺した。さらに別の部屋で寝ていた主人を起こし、家人を全員殺害したから金を出せと脅し、現金47円余り(1907年の東京での白米10キログラムの小売価格は1円56銭、06年の巡査の初任給は12円)を強奪した上、殺害した。

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一家4人殺しの凶悪な強盗殺人事件であった。男の刑は1909(明治42)年12月9日、大審院で死刑が確定した。執行は半年後の10年6月21日である。

この男についても田中は教誨の様子をまったく記載していないが、男はしばしば脱獄を企てた。それゆえ教誨にも耳を傾けた様子がない。「備考」欄で田中は書いている。

「在監中度々脱監を企てしことあり。ある時は監外に飛び出せるなど、死刑の必要は斯くの如き者あるを以てなるべし」

田中が死刑を事実上認めたのは、手記ではこの男だけであった。それでも死刑確定から執行まではわずか半年だったから、もっと長く教誨していたら田中の手記もあるいは変わっていたかもしれない。

親殺しの物乞い死刑囚は「救い難い」

教誨に自信のあった田中が救い難いとあきらめたような死刑囚がいた。

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