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これでは極刑もやむを得ない…「死刑廃止」を訴え続けた教誨師が唯一さじを投げた死刑囚の言動

source : 提携メディア

男は教育を受けたことはなかったが、窃盗などの犯罪を何度も重ねたために獄中で読書や学習をし、読み書きや思考力も身につけていた。大審院でこの男の死刑が確定したのは1904(明治37)年2月6日だが、田中の前でも一貫して冤罪を主張し、死刑に処せられることがどうしても納得できないと訴えるのであった。田中の教誨には冤罪だからと耳をふさぎ、懺悔の念はなく、罪に服する意思もまったくなかった。田中の大慈大悲を語る仏教的な教誨にも感応は薄弱だった。遺言は短い。

「冤罪を以て死刑に処せらるること頗る遺憾なり。故に刑に処せらるる人物にあらざることを世に証明するには(以下17字は文意乱れ、不明のため省略)、遺骸を解剖せられ、医学上の参考に供せられんことを望む」

男は1905(明治38)年2月15日に処刑されたが、しきりに主張した冤罪の具体的な中身は手記にはない。しかしこの男が冤罪を訴えた事実は手記に残された。

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「死刑須らく廃すべし 否廃すべからず」

114人はそれぞれ異なった生を生きて、窮極の「悪」である殺人を犯し被害者の生を断ち切った。かれらはそれゆえ国家の死刑制度によって死刑に処せられ、その生を奪われることになった。見てきたように田中は、仏教徒の教誨師として個々の死刑囚の生がぎゅっと凝縮された監獄の現場で、刑事政策からではなく、死刑囚に向き合い、伴走した。全身に補聴器を付けたように死刑囚の声に耳を傾け、対話し、諭し、迷い、憤り、悔やみ、惜しみ、苦しみ、あるいは突き放し、死刑の当否を、さらに制度の是非まで考えつづけた――。

『死刑囚の記録』『臨終心状』の二つの手記の「はじめに」に当たるところ(前者では「緒言」)で、田中は篤志の教誨師時代を含めて約20年、200人に及んだ死刑囚に向き合った体験と宗教者としての思索による結論を述べている。

田中は冒頭で言い切る。

「死刑須らく廃すべし 否廃すべからず」

死刑制度は当然、廃止すべきである、と断じてすぐに否定する。わかりにくい。しかし追いかけて「其(死刑廃すべからず)は社会に害毒を流すの大なるものなればなり」とつづけている。

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