私は、紙と共にこれまでの人生を歩んで来た。
文字を知る前は絵を描くことで物語を表現していたし、文字を知って最初に作った物語は、父の仕事の関係で家にあった模造紙に書いた記憶がある。その次は作文帳のお世話になり、作文帳で物足りなくなると、キャンパスノートを使うようになった。作家としてのプロデビューを決めたのは十二単を纏うお姫様達が主役の物語だったので、和紙や便せんなどを買い集めて切り貼りし、彼女達のきらびやかな襲の色目のイメージを固めた。
パソコンを使うようになった現在でも、ゲラ刷りは大量の紙を使うし、アイデアノートは現役であり、文字でイメージが伝えられない時などは、スケッチブックを多用している。
そもそも、この世に「作家」という職業があり、私がそれまでやってきたこと、これからすべきことはこれだと教えてくれたものこそが、紙の本であった。
忘れもしない小学校低学年の頃、寝る前に、母が一冊の本を読み聞かせてくれた。
物語は、両親のいない虐められっ子のもとに不思議な手紙が送られてくることから始まる。保護者の叔母夫婦は何故かその手紙を恐れ、孤島の小屋に逃げ込むのだ。嵐の晩、小屋の扉が轟音のノックと共にぶち破られた時――つまり、ハリー・ポッターの魔法使いとしての人生が始まったのと同時に、布団から身を乗り出して母の持つ本を覗き込んでいた私の作家としての人生もまた、始まった。

しかし『ハリー・ポッターと賢者の石』は、絵本しか知らなかった幼子にとって、あまりに強烈だった。後遺症として、以来、私はあの本の匂いを嗅ぐと、文字通り腰が抜けるようになってしまった。良い香りにうっとり、とかいうレベルではなく、骨抜きにされてその場に崩れ落ちる感覚だ。絶叫するように「お母さんお願い、あともう一章だけ読んで!」と頼み込んだ興奮が復活し、まさに脳内麻薬大爆発といった調子で、なんと涙まで出てくる。
中学、高校、大学に進学してもこれは変わらず、大学の寮から実家に戻る度に、ページを開いては胸いっぱいにその香りを吸い込み、恍惚としていたものだった。
ところが不思議なことに、ある時からこの香りは感じられなくなってしまった。古い本だからだろうかと一時期は落ち込んでいたのだが、よくよく考えてみると、香りが感じられなくなった時期は私がプロデビューを決めた時期と一致する。
親離れしたとでもいうのだろうか。ちょっと寂しい気持ちもするのだが、紙かインクが共通しているのか、時々、新しい本を開いた瞬間、あの香りがフラッシュバックすることがある。
今でも私は懐かしさに負けて、ついつい紙の本の匂いを嗅いでしまうのだ。
あべ・ちさと●1991年群馬県前橋市生まれ。2010年早稲田大学文化構想学部入学。12年『烏に単は似合わない』で松本清張賞を史上最年少(20歳)受賞。17年早稲田大学大学院文学研究科修士課程修了。デビュー作から続く壮大な異世界ファンタジー「八咫烏」シリーズは累計190万部を超える。最新刊は『烏の緑羽』、今年4月にはデビュー10周年記念『「八咫烏シリーズ」ファンBOOK』が刊行された。

次回は8月31日号です
提供:日本製紙連合会
Photo:Miki Fukano
