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毒親との生活、はじめての恋…“わたし”がAVデビューするまでに見た世界(戸田真琴『そっちにいかないで』/第1回)

2023/06/04

source : 提携メディア

genre : エンタメ

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「切るなら、 机でも、皮膚でもなく、見えないものを切らないといけないんだ」

文筆家・映画監督であり、2023年1月にAV女優業を引退した戸田真琴による、初の私小説『そっちにいかないで』(太田出版)が2023年5月27日(土)に発売となる。本人による朗読音声のダウンロードコードが付く【Amazon限定版】も同時発売する。

戸田真琴

毒親との生活、はじめての恋、AVデビューと引退……「あたたかい地獄」からの帰還を描き、240ページに渡って全編が書き下ろしとなる渾身作の一部を特別に公開する特別企画、第1回(全2回/第2回は5月29日(月)に公開予定)。

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『そっちにいかないで』(戸田真琴/太田出版)

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第一章 ゆうれいに恋

旧校舎におまけのようにくっついた鍵つきのプレハブ小屋が、生徒会室だった。べろべろと裏返るわら半紙を鷲摑みにし、大きく弓なりにしならせながらなんとか揃え、薄黄色の正方形の付箋に『朝会で配布 一年生』と書いて貼る。窓を閉め、メントスを一粒置いたようなコピー機の主電源ボタンを深く押し込み、ランプが消えたのを確認してわたしは小屋を出た。

薄灰色になったてんどんまんのぬいぐるみのついた鍵で、ドアを施錠する。右手の甲を軽く叩かれたような気がして注視すると、雨粒が簡略化した花火の絵のように弾けたところだった。透き通った粒がゼリーのように流れる。

頭皮や耳の裏、肩や首もとに同じ振動を次々と感じると、そのままざあと雨が降り出した。振り返ると遠くの山のふちがほのかにあたたかく光る。その上に淡い水色の雲がベレー帽のようにのっている。雨粒がわずかなオレンジ色を映し込み、天気雨がはじまった。

前髪までをもすっかり湿らせながら、ジャージのポケットからスマートフォンを取り出し、ビデオモードにする。見上げるように山と雨粒を撮ろうとすると、カメラレンズに二、三滴落ち、画面がぱわんと円状に広がった。水滴の作り出した球面のとおりにグラウンドやそこから逃げ帰る野球部員たちのちいさな人影が歪み、通り過ぎる位置によってのびたり縮んだりする。わたしは左手でスマートフォンを揺れないように持ちながら、右手の人差し指と親指で画面の中に映る山のふち、最も明るいところをつまむようにして、ぐんと拡大する。画面が、淡い光でいっぱいになる。拡大すればするほど画質は落ち、光が雲に溶けゆくあわいはモザイクタイルのようにがたがたと塗り分けられている。胸がいっぱいになる。無意識に息を止めていたことに気がついて、意識してちゃんと、息を吸う。カメラを回したまま帰路につく。

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