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続・なぜ「デビルマン」の映像化は失敗続きなのか?

サブカルスナイパー・小石輝の「サバイバルのための教養」

2018/03/02

現代では「進撃の巨人」が子どもの「裏・道徳の教科書」

「今やったら、『進撃の巨人』が、子どもらにとっての『裏・道徳の教科書』的な役割を果たしているんやないかな」

「それって、どういうことですか?」

「進撃の巨人」(1) (週刊少年マガジンコミックス)

「作品開始時の『進撃の巨人』の設定では、人類は壁に囲まれた狭い世界の中だけに住み、外の世界は人を喰らう巨人たちが徘徊している。これは子どもたちにとっての『家庭』と『世の中』の暗喩やろう。家庭ではかりそめの安定が得られているけど、外の世界は、広大で冷酷で残忍であり、一人ひとりは虫けらのような微小な存在に過ぎない。その事実を、はっきりと読み手に告げているのが、この作品や。

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 劇中では、懸命に訓練を積んで巨人に対抗する力を身につけようとした若者たちが、世の中に何の爪痕も残すことなく、どんどん犬死にしてしまう。『誰もがオンリーワンの特別な存在』『夢は必ずかなう』などという流行歌のフレーズなんてうそっぱちに過ぎないことを、『生きながら巨人に喰われる』という最悪のみじめな死に方を繰り返し描くことを通じて、子どもらの脳みそに焼き付けているんや。謀略や裏切りも日常茶飯事。『生き延びるためなら何でもやる、いや、やらざるを得ない』という人間が生きることの真実も、しっかりと伝えようとしている。

「進撃の巨人」実写版の樋口真嗣監督。樋口監督は庵野総監督の下、「シン・ゴジラ」の監督も務めた ©文藝春秋

「そんなくそったれな世の中で、自らの生をわずかでも価値あるものにしようとすれば、それは『何らかの形で、誰かに未来を託す』という以外の選択肢はない。つまり『社会的・歴史的な存在としての自分』を自覚せよ、というメッセージやな。ちょっと間違えば全体主義的な方向に行ってしまいそうな危うさもあるけど、『個と社会』の関係をギリギリの所まで突き詰めている。家族と離れ、いずれは巨人たちが徘徊する『社会』に出て行かなくてはならない子どもらにとっては、実践的な教訓に満ちた作品、と映るんやないやろうか」

「獣や悪魔にならず、人間の心を保ち続けるにはどうすればよいか」

「なるほどねえ。ところで、私もあれから『デビルマン』の原作漫画を読みましたけど、よくあんなえげつない話を子どもの頃に読んで、人間不信に陥りませんでしたね。まあ『人間の本性は獣』という認識自体が、人間不信みたいなものでしょうけど」

「いや、この二つは明らかに違うで。『人間の本性は獣』という事実を認識した上で、だからこそ獣の上に薄く被さっている『人間の皮』を心から大切に思い、大事にする。それがオレにとっての『人間愛』や。

 で、君の『なぜ、デビルマンを読んで人間不信にならなかったか』という疑問やけどな。それはやっぱり前回も話したとおり、『不動明が強い心を持つヒーローであり、最後まで正気を失わなかったからや』と思うねん。不動明は最終的に人類を見捨ててしまうけど、自分の中の『人間の心』は最後まで失わなかった。だからこそ、デーモンとの共存の道を選ばず、他のデビルマンたちと共に戦おうとしたわけや。読者もヒーロー・不動明と自分を同一視できたから、人間の暗部を徹底的に見せつけられつつも『自分は人間の心を失わないようにしよう』と強く思えたんやないやろうか。変身ヒーローものやったからこそ、読み手の心を闇一色に染めてしまうような作品にならんかったんやと思う。

 さらに言えば、『デビルマン』という作品のもっともすごい所は、『自分自身が獣や悪魔にならず、人間の心を保ち続けるにはどうすればよいか』という根本的な問いへの答えが、作品自体の構造の中にすでに組み込まれていることや。そして、その答えとは『自分自身もデビルマンになること』なんや」

「えっ!?」