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その後、二尺ほど下がって、いきなり「ありゃ、ありゃ」と声をあげながら、槍を罪人の脇腹に突き刺した。槍を抜くとき、血が柄に伝わらぬよう必ずひねりを加えた。およそ二十数回から三十回ほど交互に突く。ひねりを加えるため、傷口が大きく穴をあけ、そこから血液だけでなく臓物や食べ物なども飛び出すため、そのむごさにいかなる剛胆な見物人も青ざめたといわれる。また、すぐに死ねないため、罪人の苦痛は甚だしいものであった。

火あぶりの最後は陰嚢や乳房を焼いた

十数回、槍をつくと多くの者は絶命するが、頃合いを見計らって浅草弾左衛門が死体を改め、検使役の許可を得た上で突手に命じて咽喉を右から刺し貫かせた。これを止(とど)めの槍と呼ぶ。

検使役が死亡を確認した後、そのまま三日二夜、遺体はそこに放置された。

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火焙りの刑も品川の鈴ヶ森か千住の小塚原のどちらかで執行されたが、その前に、属刑(付加刑)として「引き廻し」がおこなわれた。放火の場合は、火をつけた近辺や被災地域を裸馬などに乗せられて、その憔悴(しょうすい)した姿を世間に晒された。

磔柱に縛り付けるところまでは同じだが、木の枝などを罪人の前後左右へ立て掛け、藁などをかぶせて火をつける。たちまち炎があがり、ぱちぱちと音を立てて身体が焼けていく。そのさい執行人が竹ぼうきで罪人を叩いて炭を落し、さらにほうきに火を移して鼻の穴に向ける。こうして黒く焼け焦げたところで検使役が確認して刑は終了となる。

なお、火罪執行後、止めをさすため鼻を焼くが、男の場合、さらに陰囊(いんのう)を焼き、女の場合は乳房を焼いた。これをとめ焚きと呼んだ。

あまりに残酷で成立しなくなった「鋸引」

さて、磔や火あぶりより残酷なのが、鋸引であろう。

これは主人を殺害するなど、大逆罪に限定された。身体を土に埋めたり、箱の中に押し込めたりして、首だけ地面の上に出させ、その脇に鋸を置き、通行人に挽かせるのである。だが、次第に通行人で首を挽く者はいなくなり、実際の刑として成立しなくなった。しかしながら、形式的にはその風習は幕末まで残された。