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鋸引と決まった死刑囚は、市中を引き回しとなり、その後、「穴晒箱」と呼ぶ首だけ出す箱の中に入れられ、日本橋南詰広場に2日間晒された。このとき、両肩に切り傷をつけ、その血を二本の竹鋸に塗りつけ、首の左右に置いておくのだそうだ。そして最後は、刑場において磔となったという。

武士の死罪には名誉ある切腹が科せられた

武士の死罪は庶民とは異なった。極刑にあたる罪を犯した武士は、切腹という措置を命じられる場合が多かった。切腹は、武士として名誉の死に方だとされたからだ。

腹の切り方は一文字や十文字など、いくつものバリエーションがあるが、一般的なのは、小刀を左脇下に突き立て、刃を右方向へグイッと引き回し、続いて心臓を貫き、柄頭(つかがしら)を持つ手の握りを変え、そのまま一気に臍まで切り下ろす。それでも絶命できなければ、自らの咽喉を刺し貫いて息を止めた。

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時代がくだってくると、実際に腹を切らず、扇子や木刀を紙に巻いて小刀に見立て、それに手を伸ばしたとき、介錯人が首を打ち落とすようになった。これを俗に「扇子腹」などと呼んだ。

切腹は室内ではなく、庭先で執行された。伝馬町牢屋敷で切腹を命じられるさいは、牢屋敷の裏門に近い揚(あがり)座敷と百姓牢の間の空き地に切腹場が臨時につくられた。

左右と後方の三方に白木綿の幕が張り巡らされ、切腹場には砂が撒かれ、縁なしの畳二畳が置かれ、その上に白木綿でできた蒲団(大風呂敷)を敷いた。

あえて首の皮一枚だけを切り残した理由

検使与力、御徒目付、御小人目付が左右に分かれて座り、切腹する武士は麻の裃を身につけて白木綿の上に着座する。検使与力は、その武士の姓名と年齢を確認し、自分が検使役として出張した旨を相手に告げ、「用意はよろしいか」と問う。「よい」と答えたなら、介添人が三方に紙に包んで短刀に見立てた木刀や扇子を載せて、本人の正面三尺あまりのところに置く。

頃合いを見計らって武士は肩衣の前をはずし、衣服をくつろげ、短刀をとらんと前に左手をつき、右の手を伸ばす。いよいよ三方に右手が達しようとするその刹那、介錯人が刀を振りあげて首を斬るのである。