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なぜ西洋美術はヌードにこだわるのか。裸体だらけの展覧会で考えた

なぜ西洋美術はヌードにこだわるのか。裸体だらけの展覧会で考えた

アートな土曜日

2018/03/31
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 100点に及ぶ出品作、すべてがヌード。

 見ようによってはなんとも大胆な展覧会が開催中だ。横浜美術館での、「ヌードNUDE−英国テート・コレクションより」展。

 

一糸まとわぬ男女が交歓する、ロダンの《接吻》

 英国の名門美術館テートの所蔵作品を柱に、19世紀の作例から現代アートまでを一堂に並べ、西洋美術における裸体表現の歴史を眺め渡そうというのが今展。19世紀のジョン・エヴァレット・ミレイやウィリアム・ターナー、20世紀のものならマン・レイやフランシス・ベーコンなど名品が並ぶなか、展示の目玉として君臨するのは、一体の彫刻作品である。

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 オーギュスト・ロダンの《接吻》。照明を落とした室の真ん中に、大理石の白さを際立たせながらこの巨大彫刻は佇んでいる。石造りだとわかっているのに、抱き合う裸体の男女の腕、腿、背中には人肌の弾力と温もりを感じる。これほどの生命感を彫刻は表現できるものなのか。さすがは近代彫刻界の巨人ロダンの代表作だけのことはある。

オーギュスト・ロダン《接吻》1901〜04年

 ロダン《接吻》のモチーフは、ダンテ『神曲』に出てくる悲恋の物語から取られている。けれど男女を裸体で表現したのは、ロダンの独創である。そもそも彫刻作品においては、人物像の多くは裸体のかたちでつくられる。人間の尊厳と実在感を表し肉体を賛美するには、一糸まとわぬ姿で造形するのがよいと昔から決まっているからだ。

《接吻》としばし対面し感嘆したのち、他作品を通覧していると、西洋美術のヌードへの異常なまでの執着ぶりを強く感じてちょっと驚いてしまう。今展はヌード作品ばかりを集めているわけだが、そういえば名作とされる西洋美術作品には、かなりの割合でヌードが含まれているのだ。

ポール・デルヴォー《眠るヴィーナス》1944年

ヌードとは、性的関心をかたちにする表現

 西洋美術は、なぜかくもヌードにこだわるのか。

 絵画でも彫刻においても、古来ヌードは主要なテーマであり続けてきた。そうして裸体を描くためなら、どんな名目や言い訳だって仕立て上げてきた。

「これは裸を描きたかったわけじゃなくて、神話の有名な一場面なのである」

「何も纏わぬ人体(特に女性の)こそ美の極致。芸術追求のためには裸体を描かねば」

「我々が表現において扱っているのは、美的観点から人体を眺めたヌード(nude)であって、着衣が剥ぎ取られた単なる裸を指すネイキッド(naked)とはまったく別物なのだ」

 などなど。宗教的・社会的な規範が強い西洋では、裸の表現に手を出すにはそれなりの理由づけが必要で、理論武装は洗練されていったのだった。

 

 でも実際のところ、ヌードを正当化する言説はたいてい空虚だ。おおっぴらには言えないシンプルな理由を、必死に覆い隠そうとしているのが見え見え。本当は、リアルな裸をとにかく描いたり見たりしたい! 性的な衝動を抑えがたい! ただそれだけのことだろうに。

 美的関心もないとは言わないが、それは二の次。興味の中心は性的で好奇なまなざしであると、認めてしまったほうがいい。欲望や感情に忠実なほうが、作品としては見応えあるものになるのだし。

 ロダン《接吻》はその好例だ。作者の抱くエロティシズムと造形的技能が高レベルで融合したからこそ、人を惑わす官能性を獲得している。

 今展ではほかにもピエール・ボナール《浴室》に、ポール・デルヴォー《眠るヴィーナス》……。性的な動機と美的な関心が高次元で溶け合った名作を続々と観られる。作品に触れることで、人間という生きものの業の深さまで感得できる貴重な機会だ。

ピエール・ボナール《浴室》(左)など
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