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小学5年生の冬に、里父が単身赴任した。里母は看護師で夜勤もあり、里父は会社員で、週末も休みだったので里父と暮らすようになった。転校した学校には馴染めず、毎日学校の相談室に通った。家庭では里父とぎくしゃくしていた。里父が家に女の人を連れてくることが何回かあり、それがすごいストレスになり、公園などで時間を潰して家に帰らないこともあった。

里父に「この家にいたくない」と言ったら、「実は離婚するよ、新しい奥さんができるから」と言い始めて、もうついていけないと思った。結局、里親家庭を出て児童養護施設で生活した。しかしすぐに児童相談所や施設職員に里親家庭での生活を希望し、中学生になってから別の里親家庭で生活した。それ以来「家族ありという肩書」だけあればいいと、思うようになった。

テストの点数が悪いと「床で食べなさい」

新たな里親家庭は非常に厳しかった。勉強時間が決められ、遊ぶ時間はほぼなく、ゲームも禁止され、休日に出かける服も決められた。テストの点数が悪かったりすると「床で食べなさい」と言われ、テーブルの下でトレーを床に置いて正座して食べさせられた。その頃はそれが当たり前だと認識していた。「前の里親家庭を自分から出ていったから、自分で責任を取らないといけない。自分はそういう身だから、黙って受け入れなきゃいけない」と思った。

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児童相談所の職員などは全然あてにしていなかった。言ってもどうせ変わらないと思っていた。かつて里親と三者で面談することになったとき、里母が「うちの子は勉強もスポーツもがんばっているし、私たちの言うことも聞いてくれるし、本人も生活には不自由してないと思います」と話しているのを見て、その態度の違いに驚かされた。「人間ってこんなごみなんだ」と思い絶望した。

午後10時が就寝時間で、里父はそれ以降に帰宅するので、あまり会わなかった。10時には部屋の外に付けてある鍵を閉められた。トイレに行くときは壁をコンコンと叩いて開けてもらった。里親の実子たちも、この子は拾われた子だから自分には関係ないという感じで接してきて、一切会話をしなかった。家族とは必要最低限の会話しかしなかった。