「憂河竹(うきかわたけ)」や、「憂河竹に身を沈める」という言い方もあった。「憂」は「浮」をかけており、はかない遊女の身の上を象徴している。遊女の境遇を「泥水稼業」ともいった。
遊女が毎日泣き暮らしていたわけではないし、貧農の家に生まれた女からすれば、吉原のほうが衣食住はゆたかという一面があった。とくに、「白いおまんま」を食べられるのは、吉原だからこそだった。
農民は米を作っていても、収穫の大部分を年貢として供出しなければならないため、自分たちが日ごろ食べるのは麦や雑穀まじりである。白米は祭りなどのときに食べる、あくまでご馳走だった。ところが、吉原では毎日、白米を食べる。
「身売り=親孝行」という社会通念
身につける衣装も、寝起きする場所も、貧乏人の娘には考えられないほどのゆたかさだった。
さらに、日々の妓楼の生活のなかにも、楽しみや喜びはあったであろう。
しかし、実質的な人身売買によって遊女になったという前提を忘れてはなるまい。
たとえ貧しい家の娘が自分から身売りを申し出た場合でも、それは両親や兄弟姉妹を救うためだった。自分が犠牲になって、貧窮にあえぐ家族を救ったのである。
こういう事情がわかっていたため、当時の人々は誰も「淫乱で男が好きだから遊女になった」とは考えなかった。むしろ、遊女は親孝行をした女、身売りは親孝行と理解するのが一般的な社会通念だった。
15歳のひとり娘を売る家族の悲哀
身売りに対する当時の人々の考え方が戯作『風俗吾妻男』(天保4年)によく表われている――。
相応な暮らしをしていた商家があったが、妻が病気になったのをきっかけに商売も左前になった。
夫は医者や薬に手をつくしたが、妻はいっこうに快癒(かいゆ)しない。あげくは、あちこちに借金もできて家計は火の車となり、薬も買えない苦境におちいった。
そこで、親類も集まって相談し、ひとり娘のお梅、15歳を吉原に売るしかないときまった。みなでお梅に因果を含め、最後に、病の床の母親が涙声で言い聞かせた。