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連載世界経済の革命児

2018/06/26

日本では田原俊彦が履いて人気に火がついた

 しかしオニツカとの発注トラブルなどもあり、ナイトはパートナーを日本ゴム(現アサヒシューズ)に変え、自社ブランドのシューズ生産に乗り出す。この時、事業資金を提供したのが日本の総合商社、日商岩井(現双日)のポートランド支店にいた営業担当の皇(すめらぎ)孝之だった。時は1970年、ナイトは32歳、皇は28歳。駆け出しの商社マンだった皇はブルーリボンに惚れ込み、独断で融資の返済請求を遅らせてベンチャー企業の資金繰りを助けた。

 シューズの横にあしらったマークがギリシャ神話の勝利の女神「Nike(ニケ)」が翼を広げたような形をしていたため、ブランド名を英語読みの「Nike(ナイキ)」にした。71年に発売した「コルテッツ」は現在も販売されているナイキの代表的なモデル。日本では80年代、アイドルの田原俊彦がステージ衣装として履いたことで人気に火がついた。

 だが、会社の規模拡大を急いだナイトは巨額の借り入れをするようになり、75年、ついに小切手の不渡りを出す。従業員への給料も支払えなくなり、主力銀行のバンク・オブ・カリフォルニアはブルーリボンとの取引を停止して「詐欺にあった」とFBIに通告した。ナイトのピンチを救ったのは、またも日商岩井だった。ブルーリボンの財務内容を調べた皇と上司は「再建可能」と判断。皇の上司はこう言った。

「日商がブルーリボンの借金を返済します。全額」(フィル・ナイト著『SHOE DOG 靴にすべてを。』より)

 日商岩井のリスクテイクによってナイトは収監を免れ、ナイキと社名を変えて世界的な大企業になった。

「日本製品がドイツの牙城を突き崩し、世界市場を席巻する」というナイトの仮説は一部が正しく、一部は間違っていた。アディダスの牙城を崩したのはオニツカだったが、世界市場を席巻したのは米国ブランドのナイキ。アシックスの売上高は4000億円でナイキとは一桁違う。靴作りをオニツカから学んだナイトは、そこで足を止めずナイキという世界ブランドを築き上げた。オニツカは良い靴を作ることに専念しすぎた。ナイトの成功譚は、「ものづくり」も大事だが、それだけではグローバル競争に勝てないことを教えている。