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2018/07/02

ジャズバーのマスター

 千駄ケ谷駅前交差点から東京体育館を左手に望む横断歩道を渡り、直線の舗道を200メートルほど進む。カフェなどが軒を連ねる一角に出る。

 冒険家の三浦雄一郎がヒマラヤ遠征前に必ず立ち寄るステーキ店「CHACOあめみや」が地下に入るビルには、地上から2階店舗に上がる石造の外階段がある。何代か移り変わった2階のテナントは現在イタリアンレストランになっているが、1970年代後半から80年代前半まで、生演奏の聴けるジャズバーだった。

 当時まだ20代だったマスターは78年4月1日、店から歩いて10分程度の距離にある神宮球場でヤクルト対広島の開幕戦を観戦した。同年秋、ヤクルトが球団初の日本一に輝くシーズンのことだった。

 一回裏無死。米国から来たばかりの新外国人選手デイブ・ヒルトンがいきなり左翼線二塁打を放った姿を見て、マスターは思った。そうだ、小説を書いてみよう、と。

 営業時間を終えた後、店のキッチンで少しずつ書いたデビュー作「風の歌を聴け」は翌年の群像新人賞を受賞する。選考委員の丸谷才一は「この新人の登場はひとつの事件」と評した。

 それから約40年、千駄ヶ谷における10月の風物詩となったのはノーベル文学賞発表の夜である。作家・村上春樹に所縁のある街として、ジャズバー「ピーターキャット」跡地前にある鳩森八幡神社で、有志一同によるカウントダウンイベントが開催されている。今のところ歓声は上がらず、溜息の後に和やかな笑顔が広がっている。

大山康晴は自ら財界の実力者に頭を下げた

 神社を時計回りに回り込むと、緩やかな下り坂の途中に看板が見えてくる。「将棋会館」の4文字が刻まれている。

 前回の東京五輪を3年後に控えた61年、中野からの移転先として現在の場所に旧将棋会館は建設された。当時の将棋界は棋戦の増加などで活況にあり、木造2階建ての小所帯はすぐに手狭になった。新会館建設を待望する声に応え、尽力したのは後に十五世名人となる第一人者の大山康晴だった。

 大山は自ら松下幸之助、土光敏夫ら財界の実力者に頭を下げ、故郷の岡山でも数々の企業を回って資金援助を募ることに奔走した。後に十六世名人となる中原誠も郷里の宮城で支援を呼び掛けた。

 日本船舶振興会会長だった笹川良一の協力を取り付け、さらに全国の2万3000人を超えるファン一人一人から援助を受け、6億円の建設費が集まった。76年、地上5階、地下一階の現在の会館が完成した。鉄筋コンクリートの煉瓦造り、当時としては人目を惹く瀟洒な建物だった。

 落成式で大山は宣言している。

「新会館は棋道研鑽の修練場であり、プロとアマとが膝を交えて語り合うサロンであり、前進を謳歌する棋界の広場であります」

千駄ヶ谷の将棋会館

 近年、期間を2度に分けて耐震補強工事を行ったものの、会館の外観も内装も完成当時から大きく変化していない。1、2階は一般客が出入りする売店や道場。3、4、5階は関係者のみが通行可能な日本将棋連盟事務局や7つの対局室がある。

 階段に座り込んで昼食をほおばっている子供たちの間を掻き分けるようにして棋士が対局室へと上がっていく光景がよく見られる。進化し続けるコンピュータソフトが研究に導入され、現代将棋は最先端のテクノロジーと並走しているが、戦いの場は40年前と変わらないアナログの風情を残したままだ。

 

「総本山の将棋会館で力試しをしてみようって」

 瀬川晶司が初めて将棋会館を訪れたのは1982年、長期休暇中の一日だった。

「まだ中学一年生で将棋を指すのが楽しくて楽しくて仕方がない頃でした。横浜の郊外の道場に通っていたんですけど、毎日一緒に指していた友達と武者修行に行ってみよう、ということになったんです。総本山の将棋会館で力試しをしてみようって」

 千駄ケ谷駅を降り、徒歩6分の道程を歩いた。いざ建物の前に立ってみると武者震いがしたが、2階の道場で盤に向かえば連戦連勝だった。

「あの時、棋士になると自分はもう決めていましたから。正直レベルは高くないぞ、と思いました」

 2年後、全国中学生選抜選手権で優勝し、棋士養成機関「奨励会」に入会する。門を叩いた頃は、棋士になることを微塵も疑わなかった。

 毎月2度の対局日「例会」、棋士が指す公式戦の記録係、道場でのアルバイト。一人暮らしを始めた中野から千駄ヶ谷へと赴く日々は12年間続いた。

「都会なのに静かな千駄ヶ谷は、今も昔もずっと好きな街です。最初に来るようになった頃から風景は変わっていませんよね。将棋とすごく調和していると言いますか……。でも、街の美しさを本当に理解できるようになったのは棋士になってからだと思います。奨励会員の頃は若かったし、将棋を指す場所、戦う場所でしかなかった」

 例会を終えた後、会員同士で連れ立って代々木まで歩くのが恒例だった。値段の安いファミリーレストランで何時間もたむろして、負けた日は他愛ない会話を交わすことで屈辱と不安を慰撫した。

 ファミレスに通う仲間たちの別グループには、誰もが一目を置く存在がいた。大きな眼鏡を掛けて「ハブゼン」の愛称で呼ばれていた少年は、彗星のごとく昇級昇段を重ねていった。後の永世七冠、国民栄誉賞受賞者である。

加藤一二三 ©文藝春秋

 同じ昭和45年の生まれ。早生まれで一学年上の瀬川が奨励会に入った翌85年、早々と四段昇段を果たし、加藤一二三、谷川浩司に次ぐ史上3人目の中学生棋士となった。だから、瀬川には同世代らしい交流の記憶はない。6級、5級、4級、3級、2級、1級、初段、二段……。わずか3年で修業時代を駆け抜けた羽生善治とはもちろん違う。瀬川は長い歳月の中でひとつずつ階段を上がっていった。対局の朝は鳩森八幡神社の境内に立ち寄った。86年に日本将棋連盟が1.2メートルの巨大な駒を奉納した「将棋堂」の前で手を合わせ、祈った。僕に勝たせて下さい――。