昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

2018/07/02

 20歳の二段だった90年、東京体育館が建った当時のことをよく覚えている。

「あの辺りをよく歩きました。広々としているので午前と午後の対局の間に散歩に来て、体育館前のベンチに座ってボーッと考えたりして……」

 92年春。瀬川は22歳で棋士への最終段階である三段に昇段した。年齢制限まで残り4年。遠く、重い一歩にもがき続ける日々が始まった。将棋堂参拝の習慣は、いつの間にか途絶えていた。一局の将棋に負ける度、絶望が襲った。同時に、楽しく遊ぶことに甘えた。中野のアパートは、いつも奨励会員たちの憩いの場所だった。

若かりし頃の羽生善治(1986撮影) ©文藝春秋

「自分は死んでも勝つ、何が何でも勝つんだと思い続けて戦っていたら四段になれたと思うんです。でも、自分はそうじゃなかった。そうはなれなかった」

 四段昇段を目指す三段リーグは、30数名の三段が半年間にわたって各18局を戦う。全員がプロと遜色のない実力を持つが、昇段の切符を手にするのは上位わずか2人。8期在籍し、夢に挑み続けたが、瀬川には神様が与えた力はなかった。8期とも7勝以上を挙げたが、一度も11勝以上には達せず。12〜4勝の昇段戦線には加われなかった。突出し、屹立する何かが瀬川には欠けていた。

 96年2月、同い年の羽生善治が史上初の7冠独占を成し遂げたと同時期に退会が決まった。小学生の頃から追い続けた唯一無二の夢は奪われ、将棋以外のことなど何も知らない26歳の自分だけが残された。

「退会が決まった日、千駄ヶ谷を歩いた記憶がないんです。電車に乗って中野に着いて、アパートの部屋には帰らずに何時間も彷徨い歩き続けたことは覚えてるんですけど」

 最後の例会。将棋と出会ってから初めて、勝つ意味のない勝負に臨んだ。連勝で終え、仲間たちに別れを告げた。

「最後に千駄ヶ谷の街を歩きながら、もうこの道を歩くことはないんだろうなと思っていました」

 奨励会を去っていく者に贈られる一組の「退会駒」を手に歩いた。

「なんでこんなものを渡されるんだろうと思いました。僕はもう二度と将棋をやるつもりなんてないのに」

村山聖と雀卓を

29歳の若さでこの世を去った村山聖 ©共同通信社

 数か月後、もう二度と来ることはないと思っていた将棋会館に所用で訪れた。4階の検討室「桂」を覗くと「おお! 瀬川君じゃないか!」と声を掛けられた。

 難病ネフローゼに冒されながら、名人を目指してA級の地位に在った同学年の村山聖(さとし)だった。奨励会員とA級棋士。あまりに遠い立場だったが、村山は瀬川のことを気に掛け、よく一緒に雀卓を囲んだ。「何も言わずに去っていくなんて……。何か言ってくれれば餞別ぐらいあげたのに」「じゃ、今からくださいよ!」。笑いながら別れたのが最後になった。

 1998年8月、29歳の村山は名人への夢の途中で世を去った。瀬川は同じ年の6月に父親を交通事故で失っていた。

「父がいなくなった後、すぐに村山さんのニュースを聞いて……。どうしようもない寂しさに襲われました」

 自分は何をして、どのように生きていくべきなのか。再生のため、追い求めたのは盤上の世界だった。奨励会時代に持っていた棋譜や書籍などは全て焼き払ったが、研究のための駒は残されていた。夢を失った日に受け取った退会駒だった。

「今でも使っているんですよ。綺麗な彫り駒ですし、あの駒に触れていると初心を思い出せるような気がして」

 27歳で通い始めた大学を卒業した後、サラリーマンになる。NECの関連会社にシステムエンジニアとして勤務しながらアマ棋戦に参戦した。

 恐怖と闘う将棋ではなく、悦びとして指す将棋は輝きを放ち始める。アマ名人、アマ王将のタイトルを奪い、プロの公式戦に参加するようになると、棋士を相手に勝ちまくった。A級棋士の久保利明に勝利し、対棋士戦勝率が7割を超えると、特例でのプロ入りを目指すべきと進言する声が周囲に広がり始めた。

 2005年、編入試験六番勝負で3勝を挙げて合格し、戦後初の編入棋士になった。

 今秋には、松田龍平の主演で瀬川の半生を描く映画「泣き虫しょったんの奇跡」が公開される。「聖の青春」「3月のライオン」に続く将棋映画として、夢とは何かを世に伝える。

「村山さんの人生が映画になるのは分かりますけど、まさか僕が主人公になるとは思いませんでした……」