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2018/07/02

初めての立ち食いそば

 羽生善治には10数年前から続くルーティーンがある。

 

 真夏と真冬を除き、対局の朝はJR渋谷駅から将棋会館までの約3キロの道程を約30分かけて徒歩で通っている。渋谷駅東口を降り、明治通りを北へ。途中、住宅地を歩き、商店街を抜けて、将棋会館に辿り着く。

「歩いている時は何も考えていません。ただぼんやりとしているだけです。千駄ヶ谷の周辺は散歩するのに非常に良い街なんですよ。歩いているとけっこう発見があって、街並が変わっていくのが分かるんです。アパレル関係のお店は昔から多いですけど、最近では自転車屋さんが増えてきました。本格的に自転車をやろう、という人が来る街になっているんでしょうか……」

 歩いていると、渋谷も千駄ヶ谷も「谷」であることがよく分かるらしい。

「青山はやはり『山』なんです。青山から千駄ヶ谷に向かって、すごく下っていきますからね」

 趣味を問われ「散歩」と答える人にとって絵画館周辺、神宮外苑は理想のコースだ。

「日本青年館、明治公園の辺りも好きですね。今は完全に新国立競技場の敷地になって様変わりしてしまいましたけど……」

 以前は対局中の昼食、夕食休憩では千駄ヶ谷の街に出て食事を取るケースが多かった。静かな街を歩くことは盤上の思考から離れられる最良の気分転換だったが、コンピュータソフトの劇的な進化により、一昨年から対局中の外出は禁じられている。

「将棋を指すにはとてもいい街だと思っています。私が将棋を始めた頃から将棋会館は千駄ヶ谷にありますから、やはり愛着はあります」

 奨励会時代に通った代々木のファミリーレストランは今はもう無い。一緒に笑い合った森内俊之、佐藤康光、郷田真隆らとは共に時代を築き、覇権を争うことになる。小学4年から世代の頂点で戦い、羽生よりも先に永世名人になった森内は最近、千駄ヶ谷との付き合い方が変わった。昨年5月、日本将棋連盟のナンバー2である専務理事に就任し、同2月に会長に就任した佐藤康光を支えている。小学生時代から戦いの場だった街は初めて通勤先にもなった。

羽生善治と森内俊之の対局(2011年名人戦) ©共同通信社

「ずっと一緒に過ごして、盤上で戦ってきた仲間と手を携えて運営側に回るのは不思議な感覚もあります。今までは戦うためだけに来て、どこか張りつめたような思いもありましたけど、千駄ヶ谷に通うことが日常になって気持ちも変化しました」

 羽生と同じように、街に深い愛着を抱いている。

「都心なのに静かな環境なので、将棋を指すには絶好の場所ですよね。数々の対局を重ねて来ましたし、思い返すと色々な記憶が甦ってきます。初めて立ち食いそばを食べたのも千駄ケ谷駅でした(笑)。もうお店は無くなっちゃいましたけど……。外苑の景色を見ながら歩くのが好きですね。長い付き合いになりましたけど、千駄ヶ谷という街と触れ合いながら成長を積み重ねて来られたことを嬉しく思います」

「年齢による衰えなんて言い訳にはならない」

 瀬川もまた、街と出会って35年、棋士生活14年目を迎えた。

「昔、奨励会員だった頃はいつもうつむいて歩いていました。今でも、顔を上げて、とは言えないですけど……。普通の人と同じ視線で歩けるようになった」

 通算206勝182敗(3月末現在)。タイトル戦のような晴れ舞台、大勝負を経験したことはまだない。48歳。もう爆発的に成長できる年齢ではないのかもしれない。

「でも、羽生さんは今も頂点にいるわけですから。年齢による衰えなんて言い訳にはならない。もっと勝たなくちゃとは思いますけど、好きなことをして生活できることは何ものにも代え難いことです。棋士として将棋を指すことが好きですし、僕は将棋を指す人や将棋に関わることが好きなんです」

 50歳を前にした男として、自己を見つめる視線も変わった。

「人間の本質というものは、なかなか変わるものじゃないと思うようになりました。もちろん、死んでも勝つ、勝つんだという気持ちで戦っているつもりですけど、他の棋士よりも『死んでも勝つ』という思いが弱いのかもしれないと正直思う。だから、自分の弱い部分を認めて戦っていくしかないと思います。一花咲かせたいし、舞台は常に千駄ヶ谷であってほしいと思いますし、将棋と千駄ヶ谷はずっと共にあってほしい」