中日、DeNA、オリックスの3球団でプレーしたトニ・ブランコ氏が4月8日、出身地のドミニカ共和国(以下ドミニカ)で発生したナイトクラブの屋根の崩落事故で死去。43歳だった。

「事故では少なくとも218人が死亡、189人が負傷。ナイトクラブでブランコ氏は、2012年から西武やオリックスで4年間プレーしたエステバン・ヘルマン氏(47)と一緒だった。建物の異変を察知したブランコ氏がヘルマン氏を突き飛ばし、彼は間一髪、崩落から逃れたそうです」(スポーツ紙記者)

 一時は米ナショナルズに在籍したものの、メジャーでは無名。日本に渡ったのは09年のことだった。

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「中日のバッテリーチーフコーチで渉外担当を兼ねていた森繁和氏が中南米と太いパイプを築いており、ドミニカのウインターリーグでブランコ氏を“発掘”した」(同前)

中日時代のブランコ氏

「来日当初から、日本文化を学ぼうという意識がとにかく強かった」

 中日1年目に本塁打王と打点王の二冠を達成。12年オフに移籍したDeNAでも、初年度に首位打者と打点王のタイトルを獲得した。NPB通算本塁打は181本。スラッガーとして名を馳せたが、心根はきわめて優しかった。

「森氏の教えもあって、来日当初から、日本文化を学ぼうという意識がとにかく強かった。外国人選手だけでなく、日本人の後輩のチームメートにも声をかけて、バッティングのコツを丁寧に教えるなど、よく面倒を見ていました。誰からも慕われる助っ人でした」(中日OB)