人の体も心も商品化される超資本主義の行き着く果てに「測れない経済」。そこに出現する「お金が消えてなくなったデータ資本主義」は人類の福音となるのか? この数十年から百年かけて起きる経済、社会、世界の変容を大胆に素描した成田悠輔さんの最新刊『22世紀の資本主義 やがてお金は絶滅する』(文春新書)。

 本書に書かれた未来予測をどう受け止めることができるのか。古代ギリシャからAIが台頭する現代まで、3000年の歴史をたどって壮大な心の歴史を紡いだ『生成と消滅の精神史 終わらない心を生きる』の著者で、哲学者の下西風澄さんが読み解いた。(前後篇の後篇/前篇から読む

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人間は「今・ここ」を生きるか

 だからこそむしろ最大の困難は、貨幣のアルゴリズム化という技術的問題よりも、「人は踊る」という存在論的問題にあるのではないか。本書の「稼ぐより踊れ」というメッセージは、単に経済活動からの解放を意味するだけでなく、人間存在が時間的・空間的な束縛から自由になり、一回性の「今・ここ」を肯定的に生きよ、という呼びかけとして響く。貨幣は、価値を貯蔵することで未来への備えを可能にし(時間軸)、他者との比較を可能にすることで社会的な位置づけを明らかにする(空間軸)という機能を持っていた。貨幣が消滅し、すべての交換が一回きりで固有のトークンになるということは、この時間的・空間的な基準が失われることを意味する。

 その意味で「貨幣」と「文字」の発明はどこか似ている。貨幣が「価値」の時空間的な指標・源泉だとすれば、文字は「意識」の時空間的な指標・源泉だ。かつて文字を持たなかった時代の人類は、過去の歴史や未来への計画から自由で、「今・ここ」を生きていた。文字が発明されたことで人は、記憶を外部化する代償として過去と未来という時間意識を明確に立ち上げ、「今」という認知領域から解放された。また文字の発明によって人は、直接的に声で接触する他者を超え、未知の他者との交流・比較を可能にし、「ここ」という想像力の空間を越境することができるようになった。貨幣の消滅は文字の消滅にも似ていて、こうした世界観はどこか古代的な世界への回帰のようにも思える。

 22世紀という未来、貨幣が消滅した未来、私たちは再び「今・ここ」の連続的な世界へと回帰していくのだろうか。そして人間はそのような、比較や蓄積の尺度を持たない、流動的で一回性の生に耐えられるのだろうか。不安から逃れるために安定した基準と規範を求める人間にとって、「踊り続ける」ことは、実は最も難しい生き方なのかもしれない。本書における「測れない経済」は「価値の高低よりスタイルの差異が競われる」「ただそれぞれの人がそこにあるがままにあるための仕組み」だと謳われる。筆者はこの理想に強く共感する。そうした社会が訪れることを求めるという意味で、人間は「踊るべき」という「規範的な主張」には同意する。ただ、「人間は踊ることになる」という「事実的な主張」には説得されきることができない。

©Unsplash