教育格差や体験格差を埋める。それ自体は善意だ。
しかし、公平な競争を実現することが果たして子どもたちのしあわせにつながるのか。
『子どもの体験 学びと格差』(文春新書)を上梓した教育ジャーナリストのおおたとしまさ氏と『学歴社会は誰のため』(PHP新書)で話題の勅使川原真衣氏が語る。
(本対談は、5月29日に紀伊國屋書店新宿本店で開催されたトークイベントをもとに加筆・再構成してお届けします)
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公平な競争が実現すればしあわせになれるのか?
勅使川原 「本来的に変えなければならないのは、教育の結果得られた“能力”のように見えるもので大人になってからの収入や社会的地位が決定づけられてしまうしくみではないか」と、おおたさんの『子どもの体験 学びと格差』には書かれています。本当にそうですよね。
おおた そんなの理想論だというひとがいると思いますけど、教育格差とか体験格差とかをなくすことよりも、学歴社会を変えるほうが現実的だと僕は思うんですよ。
だって、生まれはコントロールできないですよ。どこに生まれるかとかね、遺伝のこととかも含めたら。それは人智を超えたこと。遺伝の影響まで遡って教育格差をなくそうとしたら、たぶん、頭が良い子の学習権を奪うとかしかできないですよ。「君はもうこれ以上勉強しちゃダメだから」って。
だけど、会社の人事システムとか、賃金形態とかは、人間が決めていることじゃないですか。だったら変えられるはず。そっちのほうが現実的だと思うんだけど、「それは変えられません。社会はそういうしくみですから」っていうフレームワークに閉じたまま教育格差や体験格差が議論されちゃっているのが、僕はものすごく気持ち悪いんですよね。
勅使川原 いまあるフレームワークの中で議論している限り、いま優位な立場にいるひとの権威性みたいなものが温存されますからね。
おおた 教育格差を無くせと言っているひとたちが何を求めているかっていったら、結局のところ、公平な競争を実現しようということです。でも「それでいいんだっけ?」って僕は思う。