『「国語」と出会いなおす』(矢野利裕 著)フィルムアート社

 自分の小説が試験問題に使用されることがよくある。毎週のように利用申請の書類が届き、試験後に問題用紙が送られてくることが多いので、自分の小説が使われた問題を実際に解いてみるのが私の日々の楽しみである。

 自分の作品が試験問題になった作家がよく口にするのが「作者である私にも解けませんでした(笑)」だ。この言葉に、どことなく学校教育を小馬鹿にしているような、「学校の先生ってのはなーんもわかってないのね」という嘲笑が含まれているような……見ていてどうも居心地が悪い気分になることがある。

『「国語」と出会いなおす』は、そんな居心地の悪さに1つの光を当ててくれた本だった(前述の教育現場への嘲笑についても言及されている)。

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 批評家であり教員でもある著者は、『こころ』や「少年の日の思い出」といった国語の教科書の定番作品を例に出しつつ、国語にとっての文学、文学にとっての国語を問い直していく。特に、勉強へのモチベーションが高いわけではないスポーツ科クラスの生徒達と一緒に夏目漱石の『こころ』を読む授業は、「国語の授業で文学作品とであうこと」の意義と魅力が存分に現れたとても読み応えのあるものだった。

 多くの人にとって文学は国語の延長線上にあるが、いわゆる文学ファンにとって文学と国語は全くの別物であると本書の中で語られる。私も1人の文学ファンとして、1人の作家として、そのように思う。

 しかし、「いや、文学は国語の一部だ」とも思うのは、私が「試験によく出題される作家」として、学校教育に取り込まれているような感覚があるからだ。自分の小説をとても国語的に眺めている自覚がある。

「国語的」なんてややこしいワードを使ってしまったが、私の個人的な感覚を言葉にすると、それは「書いてないことを読まない」ということである。

 高校時代、私は「国語はセンスで解ける」と本気で思っていた。そんな私の横面を叩いたのは現代文の先生だった。「書いてないことを読むな」とよく言われた。私はこの先生に大学受験の小論文・作文指導も受けることになる。そこでは「書いてないことを読ませようとするな」と教わった。目の前の文章とだけ向き合い、読む・書くというシンプルなコミュニケーションを繰り返すのが私にとっての「国語」になった。その影響か、作家になった今、自分の作品に対し「書いてあることだけを読むと何が見えるか」と考える。この習慣はきっと、書き手としての長所にも短所にもなっている。

 これはあくまで本書を読んで私が感じた「国語」である。読者1人ひとりが、国語の授業を思い返しながら、「国語とは?」という問いに向き合う。そんな一冊であるに違いない。

やのとしひろ/1983年、東京都生まれ。国語教員として中高一貫校に勤務するかたわら、文芸・音楽を中心に批評活動を行う。著書に『学校するからだ』『ジャニーズと日本』等。

ぬかがみお/1990年、茨城県生まれ。2015年に『ヒトリコ』で小学館文庫小説賞、『屋上のウインドノーツ』で松本清張賞を受賞。