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2018/08/09

仕事が命だった

 母と私は、親子というより姉妹のような関係でした。私がまだ小さい頃から、母は家にいることが少なく、長期の舞台公演などがあれば、1カ月ほど留守にすることも当たり前でした。幼い私がお母さんは通いで来る人なんだと思い、玄関で「ママ、また遊びに来てね」と見送った話は、母から何度も聞かされました。たまのお休みで自宅にいるときには、母は悲しそうな顔をしていました。「ママ、どうしたの?」と尋ねたら、「ママ、お休みになっちゃった。何したらいいのかわからないの」と言われました。母はそれぐらい仕事が命でした。

朝丘雪路さんの夫・津川雅彦さん ©文藝春秋

 反対に父のほうは、休みになると「真由子、どこ行きたい?」といろいろなところへ遊びに連れて行ってくれました。授業参観や運動会などの学校行事もすべて父が来てくれて、いまでも旅行に行くと、父と一緒にお風呂に入るほど、私はパパっ子に育ちました。

 私は子供の頃、将来の夢を依かれると「3食昼寝つきのお母さん!」と答えていました。学校帰りに友だちの家へ行くと、お母さんがおやつを作って待っていてくれるのが羨ましくて、「こういうお母さんになりたい」と思ったからです。それからしばらくして私は「お手伝いさんになりたい」と思っていました。家では、お手伝いさんといつも一緒でしたから、自分も大人になったら、お料理やアイロンがけをして、誰かのお世話をしたいと思っていたからです。

 高校生になるころには、私の夢はスチュワーデスに変わっていました。アメリカンスクールに通っていた私は英語が得意だったので、英語を活かせて誰かのお世話が出来る仕事に就きたかったからです。20代に入ると、父が経営していたおもちゃを販売する会社「グランパパ」を手伝いながら、スチュワーデスになりたいという夢を膨らませていました。ところが、父に相談すると「万が一、事故が起きたら確実に死ぬような仕事はダメだ」と反対されてしまいました。

「女優をやってみない?」

 ガックリきて、自分には何もやることがないと悩んでいたとき、母に突然「ちょっと、女優をやってみない?」と言われました。女優なんて、1度も考えたことがなかったから「それはイヤ」と答えたら、「食わず嫌いはダメよ」という言葉が返ってきました。「パパとママの仕事を頭ごなしに嫌いって言うのは良くないわ。1回やって味見してみなきゃ。嫌ならやめればいいんだから」。

 そういわれて、私は25歳で母が座長を務める舞台に出演することになりました。自分で舞台に立ってみると、父と母はこんなに素晴らしい仕事をずっとつづけてきたんだと初めて実感しました。自分の演技で客席から笑い声やすすり泣きが聞こえ拍手が起こる。これはすごい仕事だと、母のいうことがわかった気がしました。

 ただ、あとになって「あれはママの策略だったのかな」とも思います。お客様の反応が直接見えない映画やテレビの仕事が最初だったら、芝居の面白さをすぐに実感できなかったかもしれないからです。

父、津川雅彦が舞台で母を起用した理由

 母自身も舞台を愛していました。私が子どもの頃は、父が演出、母が主演、伯父の長門裕之さんが相手役という舞台をよく観ました。感動の涙を流した場面は、いまでも思い出すと鳥肌が立つほど鮮明に覚えています。舞台に立っているときの母は本当にすごかった。父は同じ役者として、母を尊敬していました。父は私が女優の道に進んでから、よくこう話していました。

津川雅彦さんの兄で、真由子さんの伯父にあたる長門裕之さん ©文藝春秋

「舞台の花道で芝居をするのは本当に難しい。普通の役者は間が持たないから、一発決めて、さっと引っ込む。でも、(二代目)中村鴈治郎さんと雪江だけは花道で30分も客席を沸かせられるんだ」

 父が自分の演出する舞台に必ず主演女優として母を起用したのは単純に身内だからではないと思います。

「台本を渡して、最初に稽古で立ったときの兄貴(長門裕之)と雪江の芝居はすごいんだ。あの2人は天才だよ」

 そう言って、伯父と母を絶賛していました。私も両親と同じ道に進んで、その感覚がわかるようになりました。舞台の上で大先輩の女優として母に接し、そのすごさを体感するようになったからです。