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「愚将」牟田口廉也 “不適材不適所”を生んだ組織の病とは何か?

「愚将」牟田口廉也 “不適材不適所”を生んだ組織の病とは何か?

今につながる、日本陸軍の問題

2018/08/13

 毎年夏になると、各メディアではアジア太平洋戦争(当時の日本での呼称は大東亜戦争)をテーマにした特集が組まれる。この記事もその例に漏れず、日本の戦争について振り返っていきたい。

失敗した「インパール作戦」とは何か?

 毎夏の戦争特集のなかで、日本の戦争の失敗例としてよく取りあげられるのが、インパール作戦だ。これは、1944年3月、ミャンマー(当時の国名はビルマ)を占領していた日本陸軍が、インド北東部の都市インパールを攻略する目的で始めた戦いであった。ミャンマーは5月頃から雨季に入るため、作戦期間は雨季前の1ヶ月間と設定された。

 しかし、インパールまでの道のりは、2000〜3000メートル級の山々が連なる密林地帯で、わずか数キロ先ですら容易に進めないことが多々あった。

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インパール作戦 行軍する日本兵 ©時事通信社

 インパール作戦で日本軍が敗れた決定的原因のひとつとなったのが、戦いに向かう日本軍将兵に充分な食料を補給しなかったことだった。短期間で作戦を決着させるため、将兵らは険しい道のりを素早く踏破できるよう、できるだけ軽装にさせられ、食料も最低限の量しか渡されなかった。

 将兵が持てなかった荷物は、彼らの後方をついてきた羊や牛などの家畜に背負わせた。そして、もし将兵の食料が足りなくなったら、その家畜を殺して食べてもよいとされた。

 インパール作戦は、誰が聞いてもむちゃくちゃな計画だった。案の定、実際に作戦が始まると、進軍に手間取り、なおかつ、前線指揮官が作戦途中に更迭されるという前代未聞の事態まで起きた。前線の将兵は食料が尽きると、戦うことなく次々とその場に倒れ亡くなった。インパール作戦での日本軍の戦死者数は、総兵力約9万人の3分の1にあたるおよそ3万人だったといわれている。このなかには、多くの餓死者も含まれていた。