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はとバスの「バスガール」が経験した「東京五輪の熱気」と「地獄のような研修」

50年後の「ずばり東京」――はとバスは進化し続ける#1

2018/08/31

オリンピックの熱気や匂いを伝えて

 当時、最も人気のあったコースについて聞いてみると、意外なことにオリンピック開幕中より閉幕直後の方が印象に残っているという。

「オリンピック記念コースというのがありましてね、国立競技場や日本武道館などの会場を見て回るツアーでした。観戦席に座っていただいたり、『ここは戦前、織田幹雄が三段跳びの世界記録を出したことでも知られています。電光掲示板は高さ7.4メートル、幅が25メートル。縦10段、横50列の文字盤が並んでいます』なんてお話もしていて、今でも暗記しています。閉幕直後ですからまだ残っていたんですよね、熱気とか匂いとか」

現在建設中の新国立競技場 ©佐藤亘/文藝春秋

 オリンピック直後の東京には、競技場のみならず、街のそこここにスポーツの、そして国際イベントを開催したことに対する「熱」が残っていた。長谷井さんたちは車窓越しに、その夢の跡を伝えた。

「オリンピックを契機に東京が大きく変わりました。例えば青山通りは道幅が半分で、都電が走っていたんです。そこがオリンピック道路になるというので都電を撤去して道幅を広げて。そのとき撤去した都電の敷石は代々木の屋内水泳場(現・代々木第一体育館)の玄関前に移して敷いたんです。そんなものをツアーで見学したりもしました。

 あとは首都高環状線の築地トンネル。あそこはオリンピックの年に築地川を埋め立てて作った高速道路ですけれど、当時は左右にまだ水の跡とかミズゴケがはっきり残っていたんです。そんな話をすると、みなさん車窓からその様子を見て『え!?』と驚いていたのを覚えています」

全国から集められた容姿端麗な女性たち

 レジャースポットに集中していた人々の興味は、オリンピックを境に、劇的に変化する東京の「街」そのものに向けられ始めた。はとバスはそうした観光に対する人々の興味の変化を見逃さなかった。丸の内の高層ビルは絶好の夜景スポットに、急速に延びていく高速道路は爽快なドライブコースに。はとバスの手にかかれば、発展途上の東京の街はまたとない観光スポットになった。

©佐藤亘/文藝春秋

 そして東京オリンピックは利用客だけでなく、はとバスの顔ともいえるバスガイドにも変化をもたらした。それまで関東近県の女性しか対象にしていなかった採用を、バス増車にあたって日本全国に拡大したのだ。その当時のことを長谷井さんはよく覚えていた。

「当時の募集要項は身長150センチ以上、眼鏡不可。容姿というのもありました。実際、先輩は女優さんみたいな綺麗な方ばかりでね。当時の倍率は10倍以上でした。同期は鹿児島とか青森とか全国の出身で、私は横浜の生まれですから、色々な方言を聞くのが新鮮でした。おしゃべりしていると方言がうつってしまって、先生からよく叱られましたよ」

 当時、ガイドのほとんどは高卒者。卒業式を終えると本社に集められ、デビューまでの1ヶ月半、厳しい研修を受けた。地方出身者は立会川にある女子寮に入り、ふとんだけの4人部屋で励まし合いながら研修を乗り越えたという。