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ハーフがいる風景 #2――多様なルーツを背負う新世代

ムスリム、南米系……。「内なる国際化」と葛藤する

2018/09/23

source : 文藝春秋 2016年7月号

genre : ニュース, 社会, 国際, ライフスタイル

楽天的で個人主義

 私は大泉町や太田市の周辺に、十数年前にも通った時期がある。ブラジル人非行少年の取材だった。

 当時、少年院を出所したばかりのふたりから話を聞くことができた。ひとりはコンビニを襲った強盗傷害犯、もうひとりはカーナビを盗んだ窃盗犯だった。ふたりは10代前半で来日したが、日本では中学にも通わずに育った。

 強盗傷害の少年は、地元不良グループのナンバー2だったという。逮捕されるまで、長野や静岡にあったブラジル人ディスコにまで繰り出して、他地域のブラジル人たちと喧嘩を繰り返していた。

「ああ、『ギャング』でしょ? そういうグループは最近まで太田にありましたよ」

 そう語るのは大泉から車で40分ほどの伊勢崎市に暮らすガルシア・シーロ、20歳。アベと同様に、日本の学校とブラジル学校の両方を知る派遣労働者だ。

「PCSってグループです。前はラテンキングという名前でした。中心の人が逮捕されて解散しましたけど、やばかったですよ。ボクの知り合いがメンバーの彼女と話して目を付けられ、ビビってブラジルに逃げちゃったほどです」

 ガルシアは小学生時代に一旦帰国して、翌年には再来日するという家族ぐるみの慌ただしい行き来を経験した。そのせいで日本の学校の勉強についていけなくなり、中学3年の途中でブラジル学校に転校、ブラジル学校の高等部も数カ月で中退してしまった。

©iStock.com

 以後、仕事を転々としているが、将来は英語を勉強してカナダに移住したいという。両親も大賛成で、「そのときは家族一緒に」と話しているという。申し訳ないが私には、いつ果たされるかもわからない願望に聞こえた。とりあえずは日本で安定した仕事を探すべきではないか。リーマンショックのときのような派遣切りだって、あるかもしれない。

「そうなったら怖いな、という気持ちもありますけど、そのときはそのときって感じかな」

 楽天的といえば聞こえが良いが、彼らの無計画性は、親世代から引き継がれているようにも見える。コミュニティーの人々は、一部非行少年の存在にも、意外なほど無頓着でいる。家族や友人は大切だが、面識のない不特定多数の“ブラジル人同胞”に興味は示さない。人々は驚くほど個人主義なのだ。

「見た目の可愛い女の子は13、4歳でモデルになったりもしますけど」

 大泉町の場合、そんなまとまりのないコミュニティーの代弁者であり続けてきたのが、91年に語学教室や翻訳事務などの拠点「日伯センター」を設立し、のちに正式なブラジル学校「日伯学園」の運営にも乗り出した髙野光雄・祥子夫妻だ。

 ふたりは若き日にブラジルに渡った移民一世で、いつしか大泉のブラジル人たちと行政・警察とのパイプ役を引き受けるようになった。最近の10代を祥子はこう解説する。

「子どもたちが置かれた状況は相変わらず厳しいです。見た目の可愛い女の子は13、4歳でモデルになったりもしますけど、簡単にポイ捨てされ、群馬に戻って工場で働いてる。警察沙汰を起こす男の子も、相変わらずいます。でも、なんだかんだ言って日系人の子は根は真面目。そんなすごいワルじゃないですよ」

 2001年春、大泉のコミュニティーを揺るがす一大事があった。ブラジル人呼び寄せを始めた町長から「共生政策」を引き継いだ後継町長が、三選を逃してしまったのだ。

 当時、地元商業は衰退が著しく、人々は苛立ちの矛先を活気のあるブラジル人社会に向けた。ゴミ出しから騒音の問題までブラジル人の生活態度が批判され、新たに当選した町長は、町のスタンスを「アンチ・ブラジル」に切り替えてしまった。

 夫妻の活動にも、その波紋は及んだ。日本人住民の協力で運営する日本語教室から、協力者が一斉に去ってしまった。町役場の雰囲気が住民レベルまで広がってしまったのだ。

 やむなく祥子は、これに代わるNPOを立ち上げて、身近にいたブラジル人の若者に協力を仰いだ。小学生時代から放課後にポルトガル語を学んできた4人の子どもたちで、当時は高校生だった。

 彼らは快く教師役を引き受け、一方で、彼ら自身も全員が大学進学を果たすことができた。当時の大学進学者は、まだ少数。このNPO活動は08年に国際交流基金の地球市民賞に選ばれ、授賞式に出たひとりはこんな趣旨の挨拶をした。

「教室に参加するまでは、自分も高校を卒業したら親や周りの親戚のように工場で働く選択肢しかないと思っていました。でも、自分も日本語とポルトガル語を使って人の役に立てることに気づきました。大学進学も考えるようになりました」

 幼い子に「先生」と呼ばれる体験が、彼ら自身の意識を変えたのだ。式典会場では、そんなスピーチに涙ぐむ聴衆もいたという。

 世代を経て個人主義的なブラジル人となった日本人の末裔が、父祖の国で身を寄せ合うコミュニティー。その中で生まれ育った新世代が、独自に新たな価値観を探している。