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連載松尾諭「拾われた男」

2018/09/30

genre : エンタメ, 芸能

「タイミングなんていつまで経ってもこないよ」

 役者を志して上京し、苦労したような苦労していないような8年間を経て、ありがたい事に大ヒットドラマでレギュラーの役をいただき、これで役者一本で食っていけると踏んで、ようやくアルバイトを生活から足を洗った。少なくはない借金がまだ残ってはいたものの、彼女との同棲生活も6年目に近づき、そろそろ一人前の男としてプロポーズをしようと決意した。この一生に1度の告白を普通にやったのでは面白くもなんともない、とは言え夜景の見える高級フランス料理店に行くほどの金もなく、なんとか安くて思い出に残るイベントにできないものかと考えた。2人で富士登山をして頂上に着いた時にサプライズでプロポーズ、というのはこれから人生を共にする人と共に苦しい道を昇って行くという意味では素晴らしい案だと思ったが、彼女はそこまで体力がないので却下。じゃあもうすこし低くていい山はないかとあれこれと聞いてまわったが、冬の登山は素人にはおすすめされなかったので、暖かくなるまで待つ事にした。ただし春から夏の終わり頃まで映画の撮影が入る予定で、それが終われば秋になり、そんな事を言ってるとまた冬になり、と考えるとプロポーズするタイミングはいつまで経ってもこないような気がした。

 そんな事を渋谷のとある横丁の一角にある小さな呑屋で冗談交じりに話しをしたら、店の常連客の有田さんが言った。有田さんは年は60前後、ロマンスグレーのちょっとカッコいいおじさんで、聞くところによると芸能関係の仕事をしているらしかったが、本人はそういう話をほとんどしないし、聞いてもはぐらかすのでその正体は少し謎だったが、横丁では人気のおじさんだった。有田さんは酒を飲むといつも下手くそな博多弁を話し、終始おかしな替歌を歌う植木等のような陽気なおじさんへと変貌する。彼女と一緒の時に有田さんに会うと、いつも有田さんは彼女の事を「こんないい子はなかなかおらんと」と褒めちぎり、彼女にだけ酒をおごり、早く結婚しろと言ってくれた。

 そんな有田さんがそれまで見たこともないような真剣な鋭い表情で言った。

「タイミングなんていつまで経ってもこないよ。タイミングは明日だ」