災害対策マニュアルの策定を重要視していたものの、日々の業務に追われ、なかなか手がつけられないままでいた押入れ産業。社内の空気を変え、知識と経験ゼロからどのように防災体制を築き上げたのでしょうか。“社員が安心して働ける会社”へと変貌を遂げ、東京都の「事業所防災リーダー優良企業」として認定されるまでの変革プロセスと優良企業認定後も歩みを止めないその軌跡を辿ります。
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防災に関する“知識ゼロ”からのスタート
「実は私、2023年に総務部に異動して防災の担当になるまで、防災に関する知識は本当にゼロだったんです」
苦笑いしながら明かすのは、全国にフランチャイズでトランクルーム事業を展開する「押入れ産業株式会社」管理本部総務部係長の木戸博美さんだ。今や同社は、東京都が推進する「事業所防災リーダー優良企業」として認定を受けるなど、企業防災の先進事例として注目を集めている。
しかし、その歩みは決して最初から順風満帆だったわけではない。むしろ、長年「防災の形骸化」という重い課題を抱えていた。
災害対応マニュアルの整備やBCP(事業継続計画)の策定が必要だと認識されたのは、2011年の東日本大震災がきっかけだった。しかし、どの企業でもそうであるように日々の業務の忙しさに追われ、対策は後回しにされ続けた。
木戸さんが総務部へ異動したのは2023年。ちょうどそのタイミングで、長年の懸案だった災害対応マニュアルの作成担当に指名された。
「特別なきっかけがあったわけではありません。ただ、当時は会社の事業が順調に拡大し、売上も伸びている時期でした。総務部の役割は、社員みんなが安心して働ける環境を整え、事業の後押しをすること。防災だけでなく、就業規則の改訂などもそうですが、『総務がこれだけしっかり整えてくれているから、私たちは安心して営業活動を頑張ろう』と、現場の皆さんに思ってもらえる存在になりたかった」
しかし、木戸さんの前に立ち塞がったのは、圧倒的な「無知」という壁だった。何から手をつけてよいのか、どのように進めてよいのかも分からない。中小企業では防災専任の担当者を置く余裕などなく、本業との兼務が当たり前だ。相談できる詳しい人も社内におらず、暗中模索の孤独なスタートだった。
孤独な防災担当者を救った東京都の「事業所防災リーダー制度」と一冊の冊子
「何をしていいか本当に分からなかったので、まずはインターネットで情報を探しました。その中で出会ったのが、東京都の『事業所防災リーダー制度』のウェブサイトでした」
まさに「藁にもすがる思い」で登録したこの制度が、木戸さんの孤独な挑戦を支える強力なパートナーとなった。特に役立ったのが定期的に配信されるメールマガジン「事業所防災リーダー通信」だ。月に2回ほど届くこの通信は、PDFで1〜2ページ程度に簡潔にまとめられている。
「毎回イラストが多くて、忙しい仕事の合間でも短時間で無理なく読める分量なんです。それなのに、中身がすごく濃くて実践的。例えば、『エレベーターに閉じ込められたときは、すべての階のボタンを押して最初に開いた階で降りる』といった知識は、私もそれまで全然知りませんでした」
木戸さんは、こうした日常に役立つ防災の豆知識を得るたびに、すぐに社内のグループウェアで全社員に共有した。社員がちょっとした気分転換に読めて、自然と防災意識が高まるように工夫したのだ。
さらに、東京都が発行している「東京くらし防災」「東京防災」のPDFも共有した。
「東京都では各家庭に配られる冊子ですが、千葉や神奈川、埼玉から通勤している社員は、その存在すら知りません。都外に住む社員にも、自宅での家族の備えに役立ててほしくて共有しました」
そして木戸さんが「これから防災に取り組むすべての担当者にとって、最高の教科書」と太鼓判を押すのが、令和7年度から事業所防災リーダー登録者限定で紙媒体が配布される冊子「東京事業所防災実践マニュアル」※だ。
※電子データは東京都防災HP上で公開:https://www.bousai.metro.tokyo.lg.jp/kitaku_portal/1000048/1030486/index.html
「企業防災の進め方が、体系的かつ分かりやすく一冊に整理されています。私が何年もかけて色々なセミナーに通い、試行錯誤してようやくたどり着いた手順が、すべてここに書かれていました。これを見たとき、『自分がやってきたプロセスは間違っていなかった』と救われる思いでしたし、同時に『最初にこれを読んでいれば、こんなに遠回りしなくて済んだのに!』と思うほど素晴らしい内容です」
トップの率先した声掛けと現場の事情に寄り添う「水平展開」
社内の防災マニュアルの整備が進む中で木戸さんが何より意識したのは、防災を「マニュアルの完成というペーパー上のゴールで終わらせない」ことだった。社員への情報共有や訓練を重ね、現場への「水平展開」を徹底していった。
その動きを最も力強く後押ししてくれたのが、社長をはじめとする経営陣だった。
「社長が防災の重要性を深く理解し、率先して発信してくれていることが最大の支えです。経営トップの号令があると、現場の動きは全然違います。訓練の前には社長自ら『みんな、訓練に参加しろよ』と社員に声をかけてくれたり、救命講習を受講した後は、フロアにAEDや担架をすぐに設置してくれたりしました」
トップが率先して背中を見せることで、防災は総務部だけの仕事ではなく、「会社全体の当たり前の文化」へと浸透していった。
一方で、押入れ産業ならではの課題もあった。同社は営業社員が月の半分程度を全国各地への出張で過ごしている。全員が一度に訓練に参加することは、物理的に困難だった。
「そこで、同じ内容の訓練を複数回実施して、できるだけ多くの社員が参加できるようにしました。さらに出張先で災害に遭遇した場合にも適切に対応できるよう、訓練内容も工夫しています」
活動は毎年進化している。今年は他社の防災担当者から「水害体験が良い」と勧められたことをきっかけに、社員全員を「東京消防庁 本所防災館」の水害体験ツアーに参加させた。同社のオフィスがある場所は洪水や高潮のリスクは低いが、営業社員が全国の出張先でゲリラ豪雨や洪水に遭う可能性を想定した、実践的な選択だった。
全員が参加できるよう訓練を3回に分けて実施。体験した社員からは「初めて知ることが多くて驚いた」「非常に印象に残った」と大きな反響があった。ツアー後には関東圏の防災館をまとめた一覧資料を配布し、社員が家族や知人とプライベートで訪れるきっかけ作りも行った。
優良企業認定がもたらした「信頼」と、大企業をも巻き込む「共助」の輪
こうして一歩一歩積み重ねてきた同社の活動は実を結び、令和6年度に「事業所防災リーダー優良企業」として認定された。この表彰が社内外に劇的な「信頼」と「つながり」をもたらすことになる。
社内においては総務部が進める活動への信頼が一気に高まった。また、社外への広がりも大きかった。押入れ産業は全国に79社、184店舗を展開するフランチャイズ本部としての役割を担っている。
山形の加盟店からは、社員の防災意識を高めるために、企業防災初心者向けの講演依頼が舞い込んだ。小樽の加盟店の総務担当者が本部の防災体制や備蓄倉庫を見学に訪れたこともある。本部の真摯な姿勢が、フランチャイズ全体の信頼関係を強固にし、活性化へと繋がったのだ。
さらに取り組みは、日本を代表する大企業へも広がっていく。リスク対策の専門メディアが主催したセミナーに木戸さんが講師として登壇した際、参加企業には大企業の担当者も数多く参加していた。
「当社のような中小企業の実践プロセスが、資金も人員もある大手企業の方々に参考になるのだろうかと不安でした。でも、実際に情報交換会でお話ししてみると、大企業の防災担当者の方々も、皆さん『準備がまだまだ足りていない』『何から手をつければ』と同じように不安や孤独を抱えていらっしゃったのです」
木戸さんは、自社で作成した「時差退社計画書」など具体的なマニュアルのデータを、「防災計画のヒントにしてください」と他社の防災担当者たちに共有した。
「災害が起きたとき、自分たちだけが助かればいいというものではありません。周囲の企業同士で助け合う『共助』の輪が不可欠です。みんなで生き残らなければ意味がない。だからこそ、私たちの取り組みが少しでもお役に立つなら、という思いです」
「明日では遅すぎる」――防災はコストではなく、持続可能な未来への“最重要投資”
世の中の多くの企業において、防災は「利益を生まないコスト」や「守りの義務」と捉えられ、後回しにされがちだ。しかし、木戸さんは「それは違う」と語る。
「防災への取り組みは、企業の持続的な成長を支えるための重要な『投資』であり、最重要の経営基盤です。社内の備えや体制が整っているという安心感があるからこそ、社員は安心して目の前の業務に集中でき、会社も新しい挑戦や事業拡大に前向きに取り組むことができます。実際に当社も事業が拡大しています。防災という盤石な土台があるからこそ攻めの事業拡大ができるのです」
取引先や加盟店など、ステークホルダーからの信頼度向上はもちろん、今後は採用活動の面でも「社員が安心して働ける会社」としての大きな強みとして発信していく予定だという。
「首都直下地震は30年以内に70%の確率で起きると言われており、能登や熊本など各地でも大きな地震が頻発しています。また、8月の千葉豪雨に象徴されるように、近年は豪雨災害も各地で相次いでいます。この状況で、コストがかかるからと防災を後回しにしている会社を、社員やその家族が本当に信頼できるでしょうか」
木戸さんの言葉には数々の葛藤を乗り越え、自社を、そして他社をも動かしてきた実感がこもっている。
もし今、「何から手をつけていいか分からない」と悩んでいるなら、まずは東京都の「事業所防災リーダー制度」に登録し、配布される一冊の冊子をめくってみてほしいという。
「防災担当者は孤独になりがちです。でも、周りを見渡せば同じように悩みながら奮闘している仲間はたくさんいます。大切なのは、今すぐ始めること。明日に延ばしている暇はありません」