名古屋駅から電車で10分。名鉄豊田本町の駅を出て30秒。ピンクの看板が目印の「居酒屋 団」は、ヤクルトファンには有名な、中尾輝投手の母・美恵さんが経営する店だ。名古屋ドームでヤクルト戦があれば、ヤクルトファンで超満員になる。「うちの店は輝でもってるようなもの」と美恵さんは笑うが、その明るい人柄と美味しい家庭料理に惹かれるリピーターも多い。
思い起こすのは2017年。戸田球場での新人合同自主トレ初日は、サイン会の代わりに「ハイタッチ会」が行われた。ファンが一列に並び、ドラフト1位の寺島成輝が、同2位の星知弥がハイタッチをしながら通り過ぎる。「ハイタッチ」は、途中から自然と軽い握手になった。新人達が足早に通っていくが、最後の一人がなかなか来ない。ようやくやって来たその選手は、何と歩きながら一人ひとりに向き合い、両手で握手をしてから通り過ぎていくのだった。2016ドラフト4位の中尾輝は、そんな風にしてスワローズにやって来た。ドラフト時の記事を読むと、母・美恵さんが居酒屋を経営しており、母の手料理で体作りをしたと書かれていた。プロ入りを母に感謝し、母のためにもと頑張る。いかにも好青年だ。
苦労したルーキーイヤー
ルーキーイヤーの中尾は、しかしなかなか苦労した。入団前には、自主トレまでにと渡されたメニューを見て、その量に驚いたらしい。走るのが苦手で、ランニングではいつも後の方になる。ノックを受ければ「グラブが寝ている」と注意される。二軍の先発で投げた試合では、ある程度試合を作れる投球ではあったものの、ボール球の多さとテンポの悪さが気になった。
2017年の一軍は火の車とも言える台所事情。先発の駒不足もあって、ルーキーながら中尾を一軍の先発にと白羽の矢が立つ。時は交流戦。相手は強い強いソフトバンク。結果は3回7失点KO。いいところをろくに出せないまま、ホークス打線に飲まれたプロ初登板だった。
その日、美恵さんは現地にいた。打ち込まれる息子の姿にさぞや心を痛めたのでは、と心配したが、後に聞いたら実は「バタバタしていてよく見ていなかった」のだという。「あー輝の出番終わっちゃったー」とそれだけを嘆いたのだとか。明るく無邪気な母に支えられてか、彼もめげなかった。
中尾輝は二軍でコツコツ努力を重ねた。8月に中継ぎとして登板し始めたのが転機となり、短いイニングをしっかり投げられるようになってきた。9月の再昇格では、1回を無失点に抑えている。フェニックスリーグでは雨で2試合登板に終わったが無失点。その後台湾で行われたアジアウィンターリーグでは9試合登板し、三振また三振の快投を見せた。
初勝利とハンバーグ
迎えた2018シーズンは、キャンプこそインフルエンザで出遅れたが、中尾は一軍のマウンドで、前年とは別人のような活躍を見せることになる。とにかく腕を振る。威力ある真っ直ぐとタイミングを外す変化球で小気味よく三振を奪うピッチング。最初はビハインド時に登板、そして徐々に信頼を増し、勝ちパターンの一角へと鮮やかな成長を見せた。
プロ入り初勝利を挙げた4月8日。中継ぎでの3イニングという長い登板後、試合終了の瞬間には神宮が弾けるような歓喜に包まれた。名古屋で嬉し泣きしているだろう美恵さんに思いを馳せる。ヒーローインタビューを担当したアナウンサーも、同じ思いだったのだろう。
「ウィニングボールはどうしますか?」「初勝利は誰に一番伝えたいですか?」
その質問の答えは誰もが予想できた。中尾は予想に違わず「母に」と言った。予想通りの答えなのに、何とも温かい気持ちになる。こんなにじわじわ温かい感動をくれるヒーローはなかなかいない。母の店のお勧め料理を訊かれた中尾は「ハンバーグがお勧めです」と答えた。
その後、美恵さんは「ヒーローバーグ」と名付けたハンバーグを店に出した。スワローズファンが集まると、50個ほども作りまくった。美恵さんは、ファン感謝デーで母の店のお勧めを訊かれた中尾が「生ビール」と答えたのを、生ビールならいつでもあって提供が楽だからじゃないかと推測する。ハンバーグを作りまくる母を慮って。