鯉の季節に彼がこの古本屋を訪れるのは初めてのことだった。
「夜分にすみません、まだ開いてますか?」
「どうぞゆっくりご覧ください」
入団前はJR職員として満員電車に駆け込む人々の背中を押していた元社会人らしい礼儀正しさと落ち着き。
「タフな毎日ですね」
「ええ。平成最後と令和最初のエラーなんて記録しちゃったし……」
幼少期は『名探偵コナン』の“黒い影の犯人”の描写をやたら怖がっていた意外と臆病だったりする性格。パラパラと古本をめくる横顔を見つめながら、彼が初めて顔を見せた新人時代の日のこと、その人柄に触れすっかりファンになっていった日々がパラパラとめくれていった。
いま彼はリーグ最下位の打率に苦しみ、各所で『スランプ』と叩かれている。シーズン中にここへ来たのも彼なりに何かのキッカケを掴もうとしているのだろう。ワタシは有難迷惑だと知りながらこんな書籍を勧めてみた。
名選手たちのスランプ脱出方法
「カープがV6を果たした1991年の『月刊The CARP』に、苦しい時期を乗り越えた野村謙二郎さんのこんな記事が載っていますよ」
野村は開幕から苦しんだ。今季14の失策のうち実に5つが4月に集中。守りで狂ったリズムは持ち前の打撃にも波及し打率は下降線を辿った。その時、野村が辿り着いた答えは「去年までのガムシャラさがない」。野球を始めた頃の少年心に戻るシンプルな原点回帰だった。その日から野村は毎試合ユニフォームを真っ黒にすることだけを考えた。ユニフォームが黒くなる度に野村の打率も夏場に向け上昇していったのだ。
人格者の彼は黙って耳を傾け、やがて目尻にシワをあつめて笑った。
「野球を始めた頃のガムシャラさか。確かにそんな気分転換も必要ですよね」
「気分転換と言えば、衣笠祥雄さんは野球人生を振り返った自著の中で、打撃不振で連続フルイニング出場記録が途切れた1979年について、こんなことを吐露されていますよ」
監督にスタメンを外すと言われ連続フルイニング出場記録が途切れた夜、僕は悔し泣きし素振りで汗を流した。今の僕は大黒柱ではない『部品』となってチームに貢献しよう。「ひっこめ衣笠!」のファンの野次も『僕への評価が大きいゆえ』と好意的に解した。そしてこの年の夏、チームメイトがオールスター戦に出場する中、僕は妻子供を連れて海水浴に出かけた。3日間、野球を完全に忘れて心を空っぽにすることがこれほどストレス解消に役立つとは思わなかった。この気持ちの切り替えがなければ僕のスランプ脱出は先になっていただろう。胸のわだかまりが引き潮のように退いたオールスター戦後、僕は3連戦で7安打を放ち、人生2度目のVロードへと加わることができた。
またも彼はじっと耳を傾け、やがて笑った。
「衣笠さんほどの名選手にもそんな過去があったんですね。ファンの野次も『僕への評価が大きいゆえ』と好意的に受け止めるか……。確かにそうですよね」
「ファンの野次と言えば、広島出身の元カープの4番・山本一義さんは、この自著にサインして下さったとき、こんな新井貴浩さんとの想い出を語ってくださいましたよ」
2003年、新井はカープの4番の座に抜擢されたんですが重責のプレッシャーからか打棒は低迷し4番の座を剥奪されました。その時、苛立ちのあまり心ない野次を飛ばしたファンに応戦してしまったんです。私もスランプに陥った時、私の代わりにピッチャーを代打に送られたこともあったのでスランプや地元広島で4番に座る重責は痛いほど分かりました。なので私は、彼を食事に誘い「4番のお前が野次に反応したら絶対にダメだ。周りで子供も見ているんだから」「ファンを愛し、自分を愛し、野球という仕事を愛そうじゃないか」と伝えたんです。そこから彼はファンを大切にする男に変わってくれましたし、打席での心の落ち着きが不動の4番への布石になっていきました。