「感じの良い女の子」であろうと己を律した日々
「それで芸能コースのあった日出高等学校(現・目黒日本大学高等学校)に転校したんですが、ドアを開けたらクラスの子たちが確定申告の話をしているような世界が広がっていて。女優をしている子のなかで誰が一番早く泣けるかをゲームで競ったり、マネージャーの悪口を誰かが愚痴るのも日常茶飯事という魑魅魍魎が跋扈する教室でしたが、みんな大人の世界で働く苦しさを分かち合っていたんだと思います」
さらに当時の事務所はタレントを守るために渋谷や原宿といった繁華街へ外出することを一時的に禁止しており、仕事に差し障りが出る可能性もあるからと恋愛も基本的にはNG。大木さんは自分を押し殺し、仕事でも学校でも次第に素を出せなくなっていく。
さらに20歳でSDN48に加入しアイドルになると、ファンやスタッフに対して「感じの良い女の子」であろうと、ますます己を律していった。
「10代の女優時代はバーターでドラマの出演が決まることもあったんですが、自分の実力で勝ち取った仕事じゃないことも重々わかっていたので、うまく自信を持てなかったんです。そしてアイドルになると今度はファンに好かれなきゃ、スタッフに気に入られなきゃという気持ちが強すぎて、人を嫌いになってはいけないと思い込んでいきました」
誰からも嫌われないよう、「好印象フォーマット」に自分を落とし込んでいった大木さんだったが、女優としてもアイドルとしてもなかなか芽が出ない。そしてSDN48が解散になると武道館コンサートから一転、地下アイドルとして活動を始め、お客さんが3人という日もあった。そんなとき、さらに彼女を迷わせる一言が芸能界の大物から投下される。
「25歳のとき、たまたまお会いする機会のあった業界関係者の方に、藁をもすがる気持ちでアドバイスを求めたんです。芸能界で生き延びるために。するとそこで言われたのは、『君は感じが良すぎる』。
性格に難があったりプライベートでやんちゃしているような、ちょっと欠陥のある人間の方が俳優としてはむしろ魅力になる。だからあなたは“良い人”であることを矯正したほうがいい、という意味でした」